商業の農村進出

466 ~ 468 / 767ページ
農民は田畑の仕事をせずに商売や日雇銭を稼ぐことは、原則として禁止されていた。ただし農閑期には許可されていたのである(前掲「農民法度」第二二条)。
 一方、商人が農村へ進出し、木綿小間物の店を出すことは禁止され(木綿弘前城下の本町(ほんちょう)以外での販売禁止)、塩・味噌・油(醤油か灯油か不明)の触売(ふれう)りはよいが、その他の品物は役銭を提出して販売を許可されていた(資料近世2No.二五八)。
 藩では本百姓(ほんびゃくしょう)(税負担の農民。水呑(みずのみ)百姓に対してこう呼ばれた)維持のため、農民の次、三男が分家することを禁止していた(「国日記」享保十一年三月一日条)。分家を無制限に認めると、一戸当たりの耕地面積がしだいに小さくなり、税負担に耐えがたくなるからである。
 その後になると、農民の贅沢が目立ち、村内に商家も増え、農民の次、三男の中で商人になる者が多くなった。そのため、農業が衰微しないように注意すべきである、という藩から郡奉行(こおりぶぎょう)への訓令が出されている(同前寛政元年十月十七日条)。このように商人になる者が多くなったのは、貨幣経済・商業資本が農村へ侵入し、農村の階層分化を促したからであろう。やがて文化八年(一八一一)には、村内で営業する店の数はすでに寛政年間に定められたが、しだいに増加して今では隠れて商売する者も現れている状態である、村内の店を減らすよう調書を提出せよ、という藩からの命令が出された(同前文化八年八月一日条)。
 寛政年間に村内で一定数の店を許可したのは、津軽弘前藩の寛政改革における藩士土着政策(はんしどちゃくせいさく)によって、農村に移住した藩士の生活の不便さが早く解消されるように、という藩の配慮によるものであったと思われる。土着政策の失敗で、藩士が農村から城下へ再び戻ったにもかかわらず、一定数の店を認めたことがもとになり、在方(ざいかた)商人の増加と成長は、貨幣経済の農村浸透を一層促進させていった。
 このような傾向は、幕末に至ってどうなったであろうか。農村から次のような申し出があった。村の店が増加すると農業の妨げになるというが、それを禁止するだけでは隠商売の者を根絶できない。今回に限り店を増やすことを認めてくれるようお願いする。それにもかかわらず、その後万一隠商売の者が発覚したならば、村役人五人組(五軒組合)の者まで処罰されてもかまわない、というもので、それが許可された(「国日記」安政四年八月十一日条)。
 右のことから、農村への貨幣経済の浸透は、禁止だけでは根本的解決策にならず、時勢の流れに逆らわずに、対応していかざるをえなかったことが知られる。
 さらにその後元治元年(一八六四)には、三奉行(町奉行寺社奉行郡奉行)から次のような申し出があった。
 弘前城下より村々への触売りが許可された品物は、文化年間に定められているが(同前文化五年五月二十七日条に、弘前の商人が村へ触売りの品物、弘前の商人が村から買い受ける品物が記載されている)、近ごろは絹布木綿小間物など禁止の品物が触売りされている。触売りに紛れて悪者も村に入り込み、値段が高くなっている。また一般の農民たちも贅沢になってきているので、今後は触売りなどを禁止する。それでも触売りなどを行った場合には、品物を没収することにしたい、というもので許可された(資料近世2No.二六三)。
 要するに、安政四年の対策では効果がなく、元治元年に藩では以前と同様に禁止の態度で臨まなければならなかった。この段階に至って貨幣経済進展の勢いはいかんともしがたく、津軽弘前藩における封建社会は、農村からも崩壊の危機に瀕していたのである。