織座

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国日記」元禄十三年(一七〇〇)四月七日条によると、織座の取り立て場所には長内三益(おさないさんえき)所有の薬園が当てられた。その場所は紺屋町(こんやまち)(現市内紺屋(こんや)町。紺屋(こうや)と称し、藍染を主とする染物職人の町)の北側にあり、西浜街道(西浜は津軽半島の西側日本海に面している地域)への入口に当たっていた。
 「弘前惣御絵図」(元禄十五年ころ。弘図郷)の該当する場所には、「織物会所より願により相渡し候」と書き入れられているが、この場所(二ヵ所のうち東側)に織座がたてられた。
 同じく元禄十三年四月六日条では、織物座仲間の屋敷地として長内三益の薬園を願い出たところ、三益は迷惑千万ということで、代わりに石渡(いしわたり)(現市内石渡)辺(へん)を紹介している。
 またこの辺は、①水の便がよい、②清水が湧出する、③染屋町(紺屋町の別称)に近くて便利が良い、④西浜街道に通じていて交通の便が良い、以上万事勝手の良い場所、と記されているが、織場の立地条件としては申し分のない場所であった。
 ここで織座に関する名称について触れる。「国日記」では織物会所・織方会所・織屋会所・織物場会所織物師会所紺屋町会所会所織物師役所織場織座織物座・織物所、そのほか石渡織場所・石渡織物師役所・石渡において織座、さらに糸会所蚕繭会所等の表記が認められる。これらは役所としての機能を対象とした名称や作業場そのもの、あるいは両者を総合した名称や同一物の別称等と考えられるほか、関連の記述内容や前後の表記から判断してむしろ混とみるべきものも少なくない。
 織物所の普請について、欲賀庄三郎は元禄十四年(一七〇一)春の建設を願い出ている。それに先立って提出した仕様書によると、本屋が五間(一間は約一・八二メートル)に七間、土蔵は三間に五間、織場二ヵ所(東一棟が五間に一九間、南一棟は五間に一四間)、糸取場三間に一六間となっていて、それぞれの内部造や建材・建具・屋根葺材その他についても記されていた。ただし普請についての記述は一部の建造物に限られている。
 織物所は元禄十四年(一七〇一)三月九日に普請に着手し、四月二十日には工事の後片付けも終了。作事奉行普請奉行が引き取り、蔵など壁に未乾燥の部分もあったが、ほぼ予定どおりに完了した。またを煮るかまどは一五基であった。

図136.織座の場所(現明の星幼稚園の辺り)

 なお元禄十三年(一七〇〇)七月、織物所の建設に先んじて上方の織職人(男六人・女六人ほか)が海路到着した。職人たちは織場のできるまでの間、最初は本寺町(現市内元寺町)に借家を得、糸取り等の作業をしていたが、見物人が大勢入り込み仕事の妨げにあったり、場所がら糸取りがままならない状況におかれていた。その上持参の織機を設置する場所もなく、藩主に高機織(たかばたお)りをみせる状態になかったため十一月には居を移している。ここでは、弘前に下ってのち最初の織り立てが行われた。翌十四年四月には羽二重(はぶたえ)(絹布の一種、良質の糸で緻密に織り精練した純白のもの。薄手でなめらかで艶がある)が津軽の地ではじめて織り出され、藩主に献上されている。なお織物職人はこの後もたびたび来弘していて、元禄十五年には男二八人、女二三人、幼男九人、幼女一三人到着の記録がある。
 織座の経営について、宝永三年(一七〇六)十月の時点では、一ヵ年の入経費・飯米代・買入代金等の見積もり額が六〇〇両ほど(総員四五人)と計算されている。その後操業は資金繰りや経済事情等によって盛衰を繰り返しながら天保期(一八三〇~一八四三)ごろまで続いた。『弘前絵図(天保の絵図)』(『弘前の町のうつりかわり』弘前市立博物館刊)には紺屋町の北側に織座が認められる。その後は金木屋(後述)による経営がとって代わるようになった。