瀬戸師林兵衛による製陶

533 ~ 536 / 767ページ
国日記」などの製陶や焼成に関する記述の中に、瀬戸師林兵衛瓦師林兵衛石岡林兵衛等の名があるが、これらは関連の記述内容から同一人物とみてよい。
 悪戸村(現市内悪戸)の「御用留帳」(個人蔵)の天保十五年三月十八日条(図145)では、瀬戸座の林兵衛が焼成した瀬戸物について、売れ行きに支障を来すので他領からの移入禁止の願いを出し、許可されている。「国日記」弘化四年(一八四七)四月十七日条には、郡所仕込みの悪戸村林兵衛瀬戸座に見物人が多数入り込み、作業の妨げになっている記述がある。林兵衛は藩に焼成した雑焼瀬戸類のうち、余分は貯えて松前へ売り込みを図った。大片口(かたくち)二〇より小擂鉢(すりばち)二六まで一六品目を一八個に梱包(こんぽう)し、鰺ヶ沢より積み出したところ大変な好評を得、追加注文が来るほどであったという。なお林兵衛はの焼成にも当たっている。

図145.悪戸村の「御用留帳

 安政六年(一八五九)の「山方御用留」(弘図津)によると、悪戸村瀬戸師鉄三郎(てつさぶろう)が、大鰐早瀬野(おおわにはやせの)(現南津軽郡大鰐町)の陶土の採掘願いを出し、即日(六月二十一日)許可になっている。磁器下川原瀬戸座ではすでに早瀬野から採掘をしていたので、鉄三郎は悪戸における磁器の焼成を目指したものと考えられる。
 すでに触れたが、悪戸村での製陶は製を含めて文化年代初期から始められており、文政年間の半ば過ぎには窯業として成立しえたとみられる。生産は当初、藩で自給自足を目指すとともに領内の産業振興のため国産方による方式をとったが、藩財政の窮迫のため資金調達に事欠くにつれて、天保十年(一八三九)には国産方廃止となる。その後、取り扱いは郡所勘定方へ移り、民間の資力も取り込んで進められていった。中でも石岡林兵衛は製陶のみならず経営面でも才能を発揮し、広く内外との取引にも当たっていた。

図146.石岡林兵衛の津軽陶器卸・小売販売所
目録を見る 精細画像で見る

 悪戸村での生産は窯場も変わり、いろいろの変遷を経て明治・大正と続けられたが、生活様式の変化や交通の発達につれて移入品に押され、大正八年(一九一九)、青柳(あおやぎ)窯の廃止とともにとだえ、いわゆる〝悪戸焼〟の民窯の形で終わっている。瀬戸師としての石岡林兵衛は三代にわたると伝えられているが、林兵衛のあと一斉(いっさい)が引き継ぎ最後の陶師となった。

図147.悪戸焼の器形

 青柳窯廃窯のあとも陶工石岡倉吉(いしおかくらきち)・惣作(そうさく)父子、その他の陶工により復興の試みが続けられていった。現在の「津軽焼」は、昭和十一年(一九三六)青森県工業試験場に窯業部が設置された際、地場産業振興の一環として生み出されたもので、広く使われ親しまれてきた悪戸焼の復興を目指したものである。
 窯跡は現在のところ①扇田(おうぎた)窯(現市内下湯口字扇田)②野際(のぎわ)(野木屋または野木和)窯(現市内下湯口字扇田か)③青柳(あおやぎ)窯(同湯口字青柳)が挙げられる。そのほか、遺物等により窯跡と推定される場所も知られている。
 製品には陶器磁器などが挙げられるが、多くを占めるのは陶器である。窯場と年代により種類・器形および釉薬など異なるものもあるが、日雑器が主であった。大小の擂鉢と片口、徳利、湯通し、飯銅(はんどう)、土鍋(どなべ)、各種茶碗類、各種皿類、生姜(しょうが)すり、芋すり、土瓶(どびん)、酒器、醤油つぎ、ひょうそく(灯明器)、香炉、仏花器、油つぼ、らんびき、梅干甕(うめぼしがめ)、お歯黒(はぐろ)甕、蟹(かに)甕など大小の甕類、抹茶茶碗などの茶器、各種植木鉢、そのほか白磁も手がけている。釉薬には鉄・銅・灰などの各釉がいられ、原料や焼成温度によってさまざまな釉調や色調を呈している。文様は種々あるが、特徴は筒描(つつがき)(イッチンとも。円すい形の容器に化粧土〈白土〉を入れ、先から絞り出して文様を線で描いたもの。悪戸では輪郭内に鉄釉をほどこしたのが特徴的)である。また技法としては踊箆(おどりべら)(飛鉋(とびかんな)ともいう。造形した半乾きの器物〈瓶など〉を轆轤(ろくろ)に据(す)え、篦で削(けず)りを入れる際に、表面に篦を軽く当てて回転すると、篦は回転のためとびとびに連続してはね上がり、器物の表面に小さい削り模様が連続的についたもの)が特徴的である。染付(そめつけ)(呉須(ごす)というコバルト顔料で模様を描き、その上に無色の釉をかけて焼いたもので青藍色を呈する)も認められる。製品の印銘には扇田製・扇田・扇山・青柳・津軽青柳産・石岡・津軽などがあるが、多くは角印で丸印や変形印、枠のないものもある。窯場の名称や陶業者の石岡が使われ、津軽をとり入れたものは、移出の際に産地を特定するためにいられたのであろう。