県内遊説

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義塾を卒業してなお向学心に燃える生徒は上京し、帝国大学、慶応義塾、同人社などで学んだ。第一回卒業生伴野雄七郎は中村敬宇の同人社に学び、明治十二年に帰ってきて中央の自由民権運動の動きを伝えた。本多は菊池九郎とともに自由民権運動を推進することを決意し、明治十三年一月、田中耕一出町大助伴野雄七郎服部尚義竹内清明らと会合を重ねて、「四十余万同胞兄弟ニ告グ」の檄文を発して県下に同志獲得の遊説を行うこととなった。
 十三年二月七日、運動推進のため東奥義塾に有志百余が集まり、委員として本多庸一菊池九郎赤石行三八木沢彰六郎田中眼叟今規弘土岐八郎今宗蔵蒲田廣伴野雄七郎服部吉之丞薄田貞一が選ばれた。そして早速青森と南部方面へ小山内貢今宗蔵服部吉之丞伴野雄七郎三浦英方が遊説に出かけた。しかし、八戸士族は時期尚早ということで参加を断ってきた。また、青森県庁官吏日下鐵字は、この動きを早速元老院議員佐々木高行に報じ、この運動が「尻馬ニ乗リ候議論ナレバ、益々論破正議ニ帰セシメ可申覚悟ニ御坐候」と反民権の姿勢をあらわに示している。
 各委員が携えた今宗蔵の筆なる檄文は名調子である。
「積雪は田畝を埋め、堅氷は溝渠を鎖(とざ)し、梅柳も未だ春信の来るを覚えず、黄鳥(=うぐいす)も未だ幽谷を出づるを知らずと雖も我輩の愛国の心情と自由の精神とにおいて業(すで)に発生の時を得たり」と筆を起こし、次いで天賦人権論に拠り「我輩を目して急進事を好むものと見做(みな)す勿れ、夫れ国は人民相集まるの称なり、国中の事務を担任し一般の安福尊栄を保持するは是れ国民天賦の職分なり」と説き、これまでの日本人の卑屈さを慨(なげ)き、明治元年の五箇条の御誓文、同八年の立憲の詔、同十二年の府県会開設の精神を国会開設路線の道標として、内外の危機に直面した今こそ「国会を開き衆思を聚(あつ)め群力を協(あわ)せ以て経済の道を立てて国権を恢復せん」「嗚呼我輩のもっとも親愛するところの四十有余万の同胞兄弟よ、切に望む之れを他に問うこと勿れ、審(つまびら)かに我が心に問えよ」。

写真10 「四十余万同胞兄弟ニ告グ」

 この檄文を携えて、下北郡へは弱冠二十一歳の伴野雄七郎が行く。彼はのち三菱会社へ入り、同社理事となった。上北、三戸は盛岡藩や斗南藩、八戸藩の地ゆえ、信頼の厚い服部尚義(ひさよし)が派遣された。三戸地方へは岩手県の自由民権運動の指導者鵜飼節郎たちも遊説に来ている。服部は翌十四年十月二十九日、東京で開かれた自由党結成大会に県有志代表として出席した。西・北両郡は田中耕一、遊説人としては最年長の三十二歳、明治十六年から十九年まで北郡選出の県会議員、さらに弘前市議会議長を六回、西郡木造町長や母校の塾長も務めた。南郡は竹内清明、彼はのち政友会の実力者となり、原敬をバックに青森県の私設知事の異名をほしいままにした。竹内は三ヵ月にわたる遊説で黒石の豪農加藤宇兵衛とともに政治結社益友会を作る。彼は東津軽郡役所書記の職を大切にしていたが、第一回衆議院選挙を前にして明治二十年、決然として職を退き、維新以来の時の流れの中になお識見、人望を失わない旧藩重臣杉山龍江を首領に、その下に参謀長として工藤行幹、参謀に本多庸一菊池九郎榊喜洋芽長尾義連(よしつら)を擁した陣容を打ち立てて国会選挙の準備態勢を立ち上げた。彼は雪の中をから脛(すね)の袴、草鞋(わらじ)履きで先輩を説いて歩いた。彼を迎えた各地の名士、先輩たちはその誠意に大いに感動した。このころ、彼は田地も公債もすべて杉山に用立てて、赤貧洗うがごとき生活だった。しかし、老母と子供には三度の飯を欠かさなかった。