後藤象二郎の青森県遊説

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後藤象二郎は、明治二十一年八月二日、秋田県大館を発して弘前に至り、酔月楼に投宿した。弘前の後藤伯招待の発起人は、回天社菊池九郎長尾義連田中耕一村谷有秀ら一五人、大館への迎人は榊喜洋芽村谷有秀で、最高責任者は本多庸一、会計は赤石行三・喜多村弥平治・前田彦市らである。旅館の正面にアーチをつくり、「自由萬歳」の額を掲げ、巨大国旗を交差した。一行到着の煙火が天に響き、市街には幔幕を張り、国旗を翻し、見物人は波を打ち、萬歳の声の盛大なること未曾有だった。翌日、長勝寺で有志六百人余と大懇親会を開いた。緑門(アーチ)には「迎後藤伯」「先憂後楽」の額を掲げ、「志望堂々独推君人豪宕々満東奥」と書いた大旗を押し立てた。後藤はこの席で、日本は治外法権に縛られ、関税自主権がないため独立国でない。しかもシベリア鉄道とパナマ運河の開通は目前で、欧州列強の侵略の危機が強まっている。それなのに「嗚呼鹿鳴夜会の燭は天に冲するも重税の為に餓鬼道に陥りたる蒼生を照すことは出来ない」とし、青森県民も小異を捨てて大同に就き、団結をなし、以(もっ)て国権の拡張に努めなければならないと演説した。

写真63 料亭酔月楼
(本町 明治40年)

 四日は柾木座(のちの東宝映画館)で政談演説会を開いたが、聴衆二千五、六百人、場内立錐の余地のない盛会で、弁士に本多庸一斎藤新一郎が加わって盛り上げた。また、夜十時ごろ、回天社の若者たちが大型ねぷたを運行、人出が山のごとくで往来ができないありさまだった。
 後藤は翌五日弘前を発し、青森へ至る途中浪岡で旧大杉地の政治結社博愛社の招待を受け、一場の演説を試み、百余人の来場者を感動させた。博愛社は明治二十一年の市町村制の公布を受けて、大杉村(のち浪岡町、現青森市)の若手の指導者たる工藤善太郎(当時二十八歳)、西村勘十郎(同二十四歳)、天内七太郎(同二十六歳)らが地方自治の機運を促進するために結成していた。工藤善太郎は翌年県会議員となり、のち衆議院議員となり、憲政会・民政党の県下の指導者となり、西村も村会議員、郡会議員となり、天内も郡役所吏員、村青年会会長、村議となって地方自治に尽くした。博愛社は黒石の益友会とともに大同派に属して、広く県下で活躍した。