大正期に、中津軽郡では、各村ごとに農作物品評会を開催するようになり、同三年(一九一四)には独自に清水・和徳・豊田・堀越・駒越・岩木・相馬・東目屋・藤代・大浦・船沢・高杉の一二村で実施されている。さらに、船沢村青年団・高杉村強行青年団が、品評会を開催した(「各村農会開催、農作物品評会一等の受賞者」、資料近・現代1No.六三五)。同五年には、前記二つの青年団とともに駒越村兼平青年団も独自に品評会を開催している(『中津軽郡農会報』第七号)。
しかし、中津軽郡一六村に農会が設置されていたものの、必ずしもそのすべてが活発であったのではなく、立毛(たちげ)品評会開催だけの農会もあった。清水村の農会は大正三年、村費補助も一七五円と大きく、専任の書記を置いていた。そして、大正天皇の即位記念の果樹植栽に五〇円、郡外農事視察に三〇円、害虫駆除・堆肥舎建設・塩水選等に各三〇円を投じ、活発な活動を行った。
明治期末から大正期にかけて、中津軽郡農会の活動に貢献した人物として、清水村の外崎嘉七、楠美冬次郎、工藤銀次郎、阿部亀吉、三上喜太郎、川村喜代吉、石岡一斎、和徳村の小野貞助、川村三太郎、加藤喜久衛、阿保満吉、対馬豊、千年村の古川一英、藤代村の石戸谷左五郎、駒越村の小杉佐吉(県農会議員)、木村大助、日村善助の名前が挙げられている(「町村農会の事業と経費」、資料近・現代1No.六三八、「中津軽郡農会の役員名簿」、同No.六三七)。
写真177 明治時代の林檎園巡覧会
(下から2列目の右から2人目が外崎嘉七、4列目4人目が楠美冬次郎、右端が皆川藤吉)
なかでも、楠美冬次郎(文久三-昭和九 一八六三-一九三四)は果樹病害虫の研究、種別の鑑定に功績を残した。明治十三年(一八八〇)、清水村高田の果樹園においてブドウ及びりんごなどの栽培を始めた。同二十四年(一八九一)、清水村小沢にりんご園を開設、栽培法、病虫害、駆除予防法に尽力した。果樹協会の農事観察員兼出品人総代、勧業博覧会及び各県都市共進会・品評会等の中心人物として大きな役割を果たした。大正十三年(一九二四)、満州に渡り、りんご栽培を指導し、昭和九年(一九三四)に中国大連で逝去した。大連には楠美の功績を讃えた「頌徳碑(しょうとくひ)」が建てられた(『青森県篤農者列伝』、弘前市立図書館蔵岩見文庫)。
写真178 中国大連に建立された楠美冬次郎の頌徳碑