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商場知行

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 松前藩の支配形態は他藩のような土地の支配権ではなく、原則として蝦夷地交易の独占権を持つことであった。したがって家臣の知行形態も他藩の上士に給与される知行地に代えて、藩主の一族ならびに上級家臣には、蝦夷地での一定の地域でアイヌと交易する権利、その交易の場を商場(あきないば)と称したが、それと松前ならびに蝦夷地での鳥屋(とや)すなわち鷹の狩場が知行として宛行(あてが)われた。
 蝦夷地での商場は、アイヌの集落のある共同体の生活の場である河川の漁猟場に設置され、慶長年次頃から漸次宛行われている。
 交易はアイヌを「介抱」するという名目でなされ、三百石くらい積む縄綴船に取締として藩士が通詞と上乗りし、交易の始めと終わりにアイヌを集めて宴を開き、その折、掟書を読みきかせ、「役土人」には特別の待遇を与えた。その交易をオムシャと称した。オムシャアイヌ語のウムサで、アイヌが久しぶりに出会った時に互いになでさすり親しさを表す挨拶。アイヌの交易は、物を贈り合って親しさを示す。そのはじめにオムシャをするのである。
 知行主は交易した夷の産物を松前で商人に売却して利潤を得るのであるが、寛文の蜂起の時に津軽藩士が蝦夷地を調査した記録を載せる『津軽一統志』によれば、知行主の積む交易品は、米、古手綿類を主とし、西蝦夷地からは干鮭(からさけ)、にしん、数の子、串貝、真羽、ねっふ(膃肭臍(オットセイ)の類にて大きなるよし)、こつひ(アザラシの女のよし稀に有之)、あさらし、熊皮、鹿皮、塩引(塩を持参候て塩をいたし持参申よし)、石焼くちら(流寄り申候鯨を取上ケ尾ひれを割石焼にいたし申よし、尤くしら所々ニテ捕申事も有之よし)、鶴、魚油、からふとよりのえふりこ(夷地の松に生るくさひし也。白き色の茸也。但薬種夷仁眼病腹痛等に用る。少しにかき味也)。東蝦夷地からは干、干鱈、熊、鹿の皮、真羽、らっこ皮、鶴、鯨、塩引、、赤昆布、魚油などがもたらされたとある。
 商場に毎年派遣される藩主の船数は「上の国之三十六、七、下の国之三十五、六此外に鮭船」(津軽一統志)とあるが、藩士の商場に遣わすものははじめは毎年一場所夏船一隻に限られていた。夏船は干、毛皮類、数の子などの取引を主としていたが、のちに秋味、鱒、海鼠(ナマコ)などに新漁業を起こしたという名義で、知行主から藩主に願い出て、これに対する運上金を納めて、別に船を派遣することができるようになった(地北寓談)。
 ともかく蝦夷地におけるこの商場知行の成立はアイヌにとって、藩主ならびに特定の知行主との交易のみに限定されることになり、支配者の集中的な収奪の対象になった。アイヌとの交易において「米弐斗入の俵も、唯今は七、八升計宛入、大分の押売(買)被成候。其上俵物にあたり、串貝の一束もたり不申候へは、来年は二十束にてとられ、出兼申は子供しちにとられ申候」(津軽一統志)という有様になり、それは鳥屋場知行金掘の問題もからんでアイヌの不満を大きくつのらせることになった。