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詰合役人の役割

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 それでは、一郎右衛門をはじめとした詰合達の役割は、どのようなものであったのだろうか。安政三年一月に起草された「在勤中取計方其外奉伺候書付」(幕末外国関係文書 一三)によれば、まず第一に、「土人撫育幷教導方」であった。これは当時、蝦夷地ならびに北蝦夷地(カラフト)などをめぐる対ロシアとの領土権の問題において、アイヌの人々の向背が密接にむすびつくと認識されていたからである。特に、場所請負制下にあって、場所支配人番人アイヌに対する苛酷な使役、非道な取り扱いに対する取締りと監督が急務となっていた。第二に、蝦夷地の開発に関することで、漁業をはじめとして、農産・鉱産品などの特産物の開発が要請されていた。
 さてつぎに、水野一郎右衛門等が詰合となった頃のイシカリ場所は、どのような状況であったのかを、簡単にみておくことにしよう。
 イシカリ場所は一三カ場所よりなり、主にの豊庫として世上にしられていた。請負人は阿部屋の村山伝治(次、二)郎であった。イシカリは一三カ場所の運上屋(元小屋)が所在する本拠で、蔵や出稼小屋など四十数棟が立ち並び、勤番所・武器庫もあった。「夷人小屋」は一六五軒あり、人別は六七〇人(男三二五人、女三四五人)を数えていた。漁獲の見込高八〇〇〇石余、運上金は一〇〇〇両の大場所で、漁期には出稼人も増加し、大船も多数繰り込んでいた。この安政三年七月七日にイシカリ入りした、佐倉藩窪田官兵衛(子蔵)の『協和私役』は、「是地、夷境にありては一都会なりとぞ。夷人の言に、松前を見たければ石狩を見よと云事ありと」と述べている。また翌四年八月四日にイシカリを再訪した、関宿藩成石修輔の『東徼(とうきょう)私筆』は、「諸方より和人夷人共に群衆して、大船も三四十艘入津し、一しほ賑る也」と、漁期の殷賑(いんしん)ぶりを伝えている。
 しかし一方では、この殷賑を支えたアイヌの労働力に対する阿部屋の苛酷・非道ぶりは目に余り、イシカリ場所は「支配人、土人ノ取扱ヒ以テノ外不宜場所第一」(玉虫左太夫 入北記)といわれ、種々の問題が胚胎(はいたい)していた。

写真-1 魚見の櫓より眺望の図(松浦武四郎 西蝦夷日誌より)