さてつぎに、水野一郎右衛門等が詰合となった頃のイシカリ場所は、どのような状況であったのかを、簡単にみておくことにしよう。
イシカリ場所は一三カ場所よりなり、主に鮭の豊庫として世上にしられていた。請負人は阿部屋の村山伝治(次、二)郎であった。イシカリは一三カ場所の運上屋(元小屋)が所在する本拠で、蔵や出稼小屋など四十数棟が立ち並び、勤番所・武器庫もあった。「夷人小屋」は一六五軒あり、人別は六七〇人(男三二五人、女三四五人)を数えていた。漁獲の見込高八〇〇〇石余、運上金は一〇〇〇両の大場所で、漁期には出稼人も増加し、大船も多数繰り込んでいた。この安政三年七月七日にイシカリ入りした、佐倉藩士窪田官兵衛(子蔵)の『協和私役』は、「是地、夷境にありては一都会なりとぞ。夷人の言に、松前を見たければ石狩を見よと云事ありと」と述べている。また翌四年八月四日にイシカリを再訪した、関宿藩士成石修輔の『東徼(とうきょう)私筆』は、「諸方より和人夷人共に群衆して、大船も三四十艘入津し、一しほ賑る也」と、漁期の殷賑(いんしん)ぶりを伝えている。
しかし一方では、この殷賑を支えたアイヌの労働力に対する阿部屋の苛酷・非道ぶりは目に余り、イシカリ場所は「支配人、土人ノ取扱ヒ以テノ外不宜場所第一」(玉虫左太夫 入北記)といわれ、種々の問題が胚胎(はいたい)していた。
写真-1 魚見の櫓より眺望の図(松浦武四郎 西蝦夷日誌より)