イシカリ近隣へのこのような出稼増加は、箱館奉行の積極的な奨励施策によるところが大きい。西蝦夷地神威岬の婦女通過禁制を否定し、箱館及び近村から蝦夷地へ出向く者の沖の口改めを不要とし、入役銭を免除、開拓に従事する出稼人(開墾、台場建設等)は越年役も免除することになり、文久元年にはヤムコシナイの関所を廃止し、自由に通行できるようにした。こうした封建的通行流通の制限撤廃とともに、道路や通行家の整備をすすめ、出稼の便をはかった。しかし、イシカリ場所の請負人阿部屋は、ごく一部をのぞいて固く門戸を閉じ、二八取りの進出を拒否していたのである。
イシカリ改革により「請負人を廃し出稼を許せしより、忽ち和人数十戸入込み来り、小商売など営めり。茶屋兼旅籠屋も十軒許出来たり。尤も平常は漁業なき処故、鰊時の如きは鰊場に赴き(但し人足を勤むるものを残し置く)、秋味時に帰り来る有様なり」(石狩場所 札幌市街 石狩町資料)。また、鮭漁でにぎわいはじめる安政五年八月十一日、勝右衛門が浜名主として市中に廻文した一節には次のように、イシカリ住人の急増ぶりを述べている。
今般御改革に付、諸方より出稼入込、雇の者とも多分シマコマキ、スヽツ(スツヽ)、イソヤ、イワナイ、タカシマ、ヲタルナイ辺より罷越候様相見得。然に近年西蝦夷地不漁の場所も多(く)有之候に付、親妻子為介抱の秋味出稼に罷越候所、此節七百人余も相集り、仍て是迄の通雇方給代の儀は、六月より秋味仕舞迄入込候由。尤、御趣意に相叶へ候へ共、見請候所、多分は売女渡世にいたし……人寄集(り)、口論の儀も聞及候得共、其者より願出も無之、此度は聞捨難し。前文の売女、殊に居酒旁々昼酒買入候に付、左様の儀有之候哉に存候。
(市史一二八頁)
このように、イシカリに来る者は多かったが、漁業従事者かそれを相手とした仕事をする者がほとんどで、夏に住人が急増し冬は極小人数となる季節的往来だったらしい。漁業の出稼については第三節にゆずり、そのほかの仕事をイシカリで営もうとした人々を表2にまとめてみた。この中にも時季的に鮭漁とかかわった人は多かったであろう。
表-2 イシカリ来住者の業種 (安政5年~文久元年) |
業種 | 従事者名 | 備考 |
小商内 | 与右衛門(133) 万吉(133) 嘉七(135) 弥四松(135) 新兵衛(135) 米吉(140) 啓吉(141) 文太郎(155、156、158、168) 三右衛門(155、158、163) 金太郎(156) 和三郎(156) 文治(157、158、163、190) 喜三郎(162) 彦松(165) 兼吉(166) 武兵衛(166) 七五郎(167) 岩吉(168、189) 宇兵衛(170) 伝右衛門(172) 秀松(174) 兼吉(183) 留五郎(184) 駒吉(184、216) 吉太郎(185、191) 市右衛門(190) 久右衛門(193) 源五郎(194) 孫兵衛(兼漁業)(194) 初五郎(195) 孫三郎(208) 喜三郎(211) 彦蔵(212) 福松(214) 松右衛門(216) 与兵衛(217、218) 松蔵(217) 喜三郎(218) 吉蔵(219) 源五郎(224) 兼五郎(224) 米蔵(229) 孫兵衛(231) 喜八(236) 伝蔵(兼渡守)(259) 要吉(284) | 雑多な生活用品を販売したのであろう。 同名異人であることが明らかな場合、判断しかねる場合は別人とした。 (46人) |
小間物 | 円吉(兼漁業)(60、118) 甚五兵衛(兼木綿物)(270) 徳兵衛(287) | (3名) |
旅籠、木賃宿 | 文作(60、118) 徳右衛門(183) 新蔵(183、206) 太兵衛(195) 八右衛門(兼荒物)(60、118、206) 源吉(206) 清三郎(206) 宇兵衛(206) 熊蔵(206) 清五郎(206) | (10名) |
料理、仕出し | 玉蔵(163) | (1名) |
うどん、そば | 新蔵(兼木挽)(60、118) 末吉(168) | (2名) |
餅 | 勇蔵(135) 忠蔵(165) 熊五郎(174) 菊松(227) | (4名) |
豆腐 | 栄吉(兼小商内)(150) 鶴蔵(152) 善七(283) 長次郎(兼小間物)(164) | 長次郎は油揚屋を称す (4名) |
青物、菜物 | 彦四郎(222) 五郎兵衛(222) | 栽培も兼ねたらしい (2名) |
糀 | 儀兵衛(223) | (1名) |
仕立物 | 永次郎(135) | (1名) |
髪結 | 平吉(60、118) 政吉(154) 幸蔵(225) | (3名) |
鍼師 | 令春(210) | (1名) |
畳刺 | 粂太郎(276) | (1名) |
左官 | 長蔵(216) | (1名) |
大工 | 伝蔵(237) 栄七(281) 熊次郎(282) | (3名) |
手間取稼 | 八兵衛(150) 九郎右衛門(157) 久三郎(283) | (3名) |
仕事師 | 春吉(193) | (1名) |
鍛冶 | 栄治(194、221) | (1名) |
柴根堀 | 第次郎(60) | (1名) |
炭焼 | 倉吉(兼漁業)(60、118) 竹松(188) 重吉(201) | 倉吉は倉松か (3名) |
五十嵐勝右衛門文書の『石狩御用留』(新札幌市史第6巻所収)によった。表中の(数)はその頁数。御用留に欠本があるため、業種や従事者はもっと多かったはずである。漁業、農業専従者及び仕事の不分明な者は表に含めなかった。 |
出稼に門戸を開いたイシカリの町は、これらの人々のほか、漁業者、三問屋、三御用達をはじめイシカリ役所、改役所の関係者、そしてアイヌとともに、新しい町づくりが始まったのである。
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写真-5 安政6年のイシカリ(西蝦夷地樺太道中記の内) |