まず、前場所請負人阿部屋の扱い方がある。漁業を直接改変しない方針にそい、これまで阿部屋が漁獲してきた引場をすべてそのまま割り渡したから、イシカリ最大の、しかも好条件の引場を占める出稼人に転身した。次に、改革時すでに出稼人としてイシカリに引場を持っていた山田文右衛門、瀬川屋孫兵衛、梶浦屋五三郎の三人にも既得権をすべて認め、従来の引場をそのまま割り渡し、さらに川筋に希望の個所を認めた。
イシカリ改革の大きなねらいは、場所の閉鎖性を打破し、出稼人を受け入れ、生産活動を高めることにあったから、新漁場の開発を望む者へは逐次割渡しを行った。とはいえ好条件の個所は阿部屋と山田にほとんどおさえられていたから、簡単に引場を手に入れることができたのではない。既得権の中に新出稼人が割り込むにはねばり強い交渉が必要だった。こうして安政五年、新たにイシカリで鮭引場を得た者は一二人をかぞえる(図1によると三国屋、吉太郎、与助もこの年から引場を持ったようだが、他の史料で確認できないので、とりあえずはのぞいた)。これに既得権の継続者四人を加えると、改革元年は一六人の鮭網経営主が誕生したわけである。これらの人を一般の出稼永住者とわけて、網持出稼人と呼ぶことにする。翌六年の状況をみると、吉五郎と弥右衛門が早くも網持出稼人から名を消す。資金の乏しい者が引場を経営するのは容易でないことがうかがえる。かわって八人が新たに参入し、前年から続けた一四人の仲間に加わったから、この年は二二人が網持出稼人で、改革時の主な顔ぶれがそろったとみてよい。
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図-1 石狩川漁場 西蝦夷地絵図(江差町史資料編2所収)によった。 安政5年の鮭引場、網持出稼人、改役所勤番人等の配置が示されている。 |
表-6 イシカリ改革後の網持出稼人(安政5・6年) |
網主 | 郷里 | 住居 | イシカリにおける出稼引場 | 備考 | |
改革前から稼業 | 阿部屋 | 松前 | 浜中(31町)、ホリカモイ、ワッカオイ、モシンレフ、トウヤウシ、ハナンクル、ヒトヱ、トヱビリ、タンネヤウシ、ツイシカリ、他 | ||
山田家 | 松前 | 浜中(8町)、ホリカモイ、ワッカオイ、上トウヤウシ、ハナンクル、ヒトヱ、ツイシカリ、他 | |||
孫兵衛 | 松前・荒谷 | カムイコタン | 浜中(24町)、ハナンクル | 安政4年から(3年冬網) | |
五三郎 | 松前 | アリホロ | 浜中(16町)、ハナンクル | 安政4年から | |
安政五年より出稼 | 勝右衛門 | 常陸 | 浜中(15町)、トウベツフト、トヱビリ、タンネヤウシ、他 | 一部代人(平治、久五郎、伝吉他) | |
林治郎 | 松前 | 浜中(12町)、ウツナイ | 浜中を安政6年返上 | ||
吉五郎 | 松前・吉岡 | マクンベツ | 安政6年返上 | ||
半兵衛 | 松前 | オタルナイ | シビシビウシ、ハナンクル | 代人(久五郎、源治、惣兵衛) | |
利右衛門 | 松前 | マクンベツ、安政6年吉五郎返上の網も引きつぐ | |||
金兵衛 | カムイコタン | 上トウヤウシ | |||
久吉 | 上の国 | ゼニバコ | サツポロフト | ||
八右衛門 | サツポロフトの内シノロ | ||||
七兵衛 | 箱館 | オシヨロ | 下ヘケレトッカ、トエビリ、安政6年林治郎返上の浜中を引きつぐ | 同名2人いるか? | |
三太郎 | アサリ | 下ヘケレトッカ | |||
弥(五)右衛門 | ヒツシツカ | 上へケレトツカ | 安政5年のみか? | ||
与三郎 | 箱館 | トヱビリ、ウツナイ | |||
安政六年より出稼 | 三国屋 | 越後 | ヒトヱ、モシンレフ、ハナンクル | 安政5年から? | |
吉太郎 | ノブカ | シュノツフト | 安政5年から? | ||
伝吉 | アサリ | トヱビリ | 安政5年勝右衛門引場 | ||
平治 | イワナイ | オタルナイ | ヒトヱ | 安政5年勝右衛門引場 | |
鶴蔵 | 箱館七重浜 | フシコヘツ | |||
近郎 | トウヤウシ | ||||
市助 | イワナイ | ツイシカリ | |||
六郎兵衛 | 尾張 | ヒトヱ |
(注) | 郷里、住居は判明した分のみ記入したが厳密なものではない。(大崎屋)平治の場合、イワナイにまず出稼しており、その免判によってオタルナイでニシン稼ぎをし、さらにイシカリにも引場を求めて来たと読みとってほしい。 新札幌市史第6巻所収の『村山家資料』『五十嵐勝右衛門文書』により作成。 |
網持出稼人は当然ながら新しい町づくりの有力者層を構成するわけで、①場所請負人出身者(阿部屋、山田、半兵衛)、②役務をともなうもの(浜名主、開発方取扱、渡船)、③その他の小経営主に大別することができる。安政六年の場合①②は六人。③が一六人と圧倒的に多いが、網持出稼人の漁獲高に占める割合は二二パーセントにすぎない。それだけ六人の特権層がイシカリ改革時におよぼした影響は大きかったといえよう。
その後も網持出稼人の出入りははげしく、引場返上、再割渡しが繰り返されるが、川口からエベツブトまでのイシカリ川筋における新規開発には限界がある。希望を満たす割渡しができなくなったため、入会漁とする方針が万延元年(一八六〇)一月に打ち出された。すなわち、一カ所の引場を複数の網持出稼人に割渡し、当事者間の協調で経営するようイシカリ役所は命じる。しかし、網持出稼人の強い反発にあい、この方針は取り消される運命だったが、一部で話し合いによる入会漁は実現した。このように改革三年目にしてイシカリの鮭漁場は飽和状態になり、さらに生産力を高めようとするならば、出稼人の数よりも技術的な改良に目を向けなければならなくなるのである。