廃使置県といってもその移行は簡単なものではなかった。それは旧開拓使が一般の地方行政庁と異なり、多大の権能を有していたからである。開拓使の北海道における統治は、必要な法令の制定、司法を含む諸般の行政事務の管掌、租税の収納と支消、屯田兵の総理、学校の存置、鉄道の敷設・管理、船艦の保有、それに各種産業の振興と殖民事業、アイヌの撫育と、「諸政統べざるなく、宛然たる殖民地の如し」(明治天皇紀 五)であった。このような開拓使を廃して一般諸県と同様の地方行政庁に移行するのには、特有の行政上の権限や事務や事業を分解しつつ、それらを国政や地方行政の成規に帰属せしめていかなければならないのであるが、またそこに混乱も生じかねなかった。
政府は移行に当たり、十五年二月九日直ちに「北海道三県法律規則ノ従前施行セサルモノ当分据置之事」(公文録 太政官)と布告して、北海道を適用外としていた法令の即時施行を避け、また内務省も、土地人民に属する事務は他府県と異なることにより、当面「旧開拓使ノ仕来リ」をもって処理したい旨の調所札幌県令の伺を承認して、スムースな移行を謀っている(公文録 内務省)。このような措置の下に札幌県は、旧開拓使より土地人民を受け取り、札幌県庁を札幌区南一条西三丁目八番地に置いて三月十六日開庁した旨を届け出るに至った。なお箱館県も同日、根室県は四月一日開庁している(同前)。また三県の列順の位置に関し、三月二十二日政府は、従来の府県序列は三府四港を筆頭に置き、他は五畿七道ごとにまとめて配列していたとして、函館は開港場の故に四港末の新潟県の次に位置し、札幌・根室の両県は最終の西海道の沖縄県の次に列すべしとして、全国府県の末尾に位置づけられた(同前)。
旧開拓使事務・事業で他省庁に移管の決定をみた最初は屯田事務で、廃使と同時に二月八日、准陸軍大佐永山武四郎以下屯田武官の移管と共に、屯田事務局もすべて陸軍省の管轄下に入った。ついで司法事務である。従来北海道では控訴と重罪に関してのみ全道一円函館裁判所の管轄下にあったが、札幌本庁・根室支庁管内での軽罪以下の裁判は開拓使にゆだねられており、沖縄県と共に司法・行政未分化の状態であった。これを十五年二月二十五日に司法裁判所を置いて管理するとの布告が出され、司法裁判事務は司法省に移管されることになった。さらに六月二十日「各裁判所位置管轄区画表」の改正布告により、札幌県内では始審裁判所が札幌に、治安裁判所が札幌・浦河・増毛・小樽・岩内に置かれることとなり、またそれらの管轄区域の決定もみた(公文録 司法省)。なお十八年十月二十日札幌・根室の始審裁判所において重罪裁判所を開く旨の布告がなされた。
その外の旧開拓使事務・事業は、十五年三月八日と十六日の両度にわたり、太政官より移管されるべき各省庁・府県に令達された。いまそれを列挙すると左の通りである。
〈大蔵省〉 | 旧東京開拓使物産取扱所(大阪・敦賀の同派出所を含む)、北海道準備米(函館県五〇〇〇石・札幌県二万三〇〇〇石・根室県三〇〇〇石)、漁業及び昆布採収資本金(漁業四〇万円・昆布一〇万円) |
〈工部省〉 | 札幌工業課管理諸工場、幌内・岩内両煤田、幌内鉄道 |
〈農商務省〉 | 殖民事業(年額三万円)、山林事務、七重勧業試験場、札幌勧業育種場、札幌物産課製煉場、札幌物産課博物場、札幌製網所、札幌製粉所、札幌農学校、同附属校園 真駒内牧牛場、新冠牧馬場、札幌綿羊場、麦酒醸造所、葡萄園・葡萄酒醸造所、葎草園、札幌桑園・養蚕室、根室牧馬牛場、根室・厚岸缶詰所、択捉・国後臘虎猟、函館製革所、石狩・美々缶詰所、根室木挽器械所、函館鱈肝油製造所、味噌醬油製造所、札幌陸運改良事業、札幌紡績所 玄武丸、函館丸、矯龍丸、西別丸、乗風丸、清風丸、沖鷹丸、石狩丸、千島丸、単冠丸 |
〈宮内省〉 | 旧開拓使東京農業試験所(渋谷) |
〈海軍省〉 | 旧開拓使東京出張所建物(芝公園内) |
〈東京府〉 | 旧開拓使東京出張所敷地及び同附属官有地二カ所(芝公園内) |
〈札幌県〉 | 弘明丸(森・室蘭間渡海用) |
〈根室県〉 | 千島国土人撫恤事務 |
〈廃止〉 | 家屋改良費貸与 (公文録 開拓使) |
以上の諸省庁・府県への移管は、先の西郷開拓長官の払下処分案をほぼ踏襲したものであった。ただ農商務省移管のうち、真駒内牧牛場以下の牧場・工場・船舶等は、西郷処分案では人民払下げもしくは稟議中とあったが、一応農商務省所轄とされ、しかし将来官所有の目途なき場合は人民払下げとの方針でもあった。
かくて令達を受けた各省・府県は、順次開拓使残務取扱所より移管物件を受け取っていった。最も多くの事業所・事務を引継いだ農商務省は、それらを同省の農務・商務・工務・山林・駅逓・博物・庶務の七局に分掌せしめた。最後の移管は工部省で、六月三十日に引継を完了し、七月一日その管理のため札幌に工作場管理局と岩内・幌内両炭山並鉄道管理局を設置し、その主任官として共に旧開拓使官吏の、前者に工部大書記官長谷部辰連、後者に同山内提雲をそれぞれ任命した。ここに開拓使残務取扱所は「残務取扱方追々整理ノ運ニ立至リ」として、この六月三十日をもって閉鎖されることとなった。ただ残務のうち会計事務のみ未完であったので、新たに大蔵省租税局箱崎出張所構内に旧開拓使会計整理委員詰所を置き、大蔵省に属して大蔵卿直轄に付された(同前)。この委員は鈴木大亮(農商務大書記官兼大蔵大書記官)、金井信之(大蔵権大書記官)、内海利貞(農商務権大書記官)、原退蔵(内務権少書記官)、桑山敏(大蔵権少書記官)、八木下信之(工部権少書記官)、奥並継(太政官准奏任御用掛)であった。すべて旧開拓使官吏である。なお同年九月六日右委員に委員長を置くこととなり、鈴木大亮が任ぜられている。
以上の旧開拓使事務・事業の移管の過程で、関連省庁の多くの要人が引継事務等視察のため本道を訪れていた。すなわち十五年の五月に工部卿佐々木高行、六月に会計検査院長岩村通俊、七月に農商務卿西郷従道、陸軍卿大山巌、参謀本部次長曽我祐準、九月に内務卿山田顕義、侍従長米田虎雄らである。