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医療施設の設立と施療

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 札幌に医療施設が設けられたのは、二年十一月札幌村に一小屋を造り、大学二等医一名が在勤して仮病院として、札幌本府建設に従事する者や農村部移住民に対して施療したことをもって設立の端緒とする。この場合の大学二等医とは、開拓使がその設置と同時に、大学校(二年十二月大学東校となる)と相談して医員官等を定め、大学校の中助教馬島春庭など数名を開拓一等医以下に任命して函館病院に配属し、札幌をはじめ開拓の拠点に大学医員を採用して赴任させ、医員の官禄も大学校が負担したからで、札幌には平帰一が在勤した。仮病院の施療は、二年十月の「病院規則」に基づいて行われた。
 三年閏十月開拓使は、函館病院を大学東校の管轄下におき(四年十一月開拓使に移管)、札幌の仮病院をはじめ全道各病院を統轄する北海道の医療全般にかかわるセンターと位置づけた。札幌は、前記のように三年後半から人口も増加し、患者も多くなったことから三年十一月、仮病院を東創成町(現北一条東一丁目)の官舎に移転していたが、札幌詰医師斎藤龍安ら三人が四年二月本病院建設を嘆願したように、患者の増加に対応しきれなくなっていた。このため同年六月、東創成町に四〇坪の病院病室を六六九円余をもって新築し、はじめて入院患者を収容した。四年から十四年までに開拓使が医療施設の新築・修築を行ったのを『開拓使事業報告』でみると、概要がわかる(表17)。
表-17 開拓使のおもな医療施設新築・修築一覧(明治4~14年)
新修医療施設名場 所面 積期 間金 額
4札幌病院病室東創成町40坪0005~ 6月669円253
仮病院建足東創成町19. 7505~ 6504. 167
仮病院模様替東創成町32. 00011~12175. 794
5梅毒院雨竜通80. 2507~ 91571. 940
病室札幌通18. 7506~ 8156. 549
6病院病室コック所雨竜通240. 0004~ 89453. 638
病室医学校引建直雨竜通114. 0009~11369. 770
病院病室各所雨竜通9月146. 755
病院物置引建直雨竜通118. 0009~10140. 874
同病室各所雨竜通10~11101. 477
10病室伝染病室札幌通48. 2225~101558. 223
病院病室食堂札幌通9~10106. 816
伝染病室上手稲村18. 00010月127. 000
11病院建増札幌通21. 25012~ 6353. 260
病院賄所模様替建増札幌通19. 2503~ 6438. 600
12病院薬品庫予防室建増雨竜通42. 5003~ 71633. 300
病院建足病室模様替東創成町0   11~ 6459. 373
13病院生徒舎模様替札幌通64. 0005月477. 417
病院診察所建足札幌通6. 50011~12202. 105
病院間内札幌通8~ 9250. 591
病院間内札幌通7~ 9107. 107
14病院間内雨竜通6~ 7254. 752
開拓使事業報告』第2編より作成。

 四年五月、開拓使は所期の札幌本府がいちおう建設されたのを契機に、本庁を札幌に移し札幌開拓使庁(五年九月札幌本庁となる)とし、八月には分領支配が廃され、札幌を頂点とした全道を管轄する基本的機構が成立した。これにともない開拓使の医療への対応も再編の段階に入った。
 五年一月開拓使は、太政官に病院および医学校の建設と、外国人医師三人ほどの雇用につき伺書を提出し、外国人医師雇用を除き許可された。七月札幌開拓使庁は、東京より五等出仕渋谷良次、七等出仕新宮拙蔵、同竹内正恒その他医員十数人を招いた。病院の医員も前年度七人に対し、五年度は一挙に二一人に激増するなど医員を充実させるとともに、七月には病院仮規則を定め、病院薬価賄料を商工に限り自費とし、農業移民・アイヌ・市在困窮者は官費とした。さらに七月から十一月にかけて豊平村に付属仮病院を開設し、新道建築人夫患者の治療も行った。そしてほぼこの頃病院は、函館病院から分離独立し札幌本庁の管轄になったようである。
 六年一月、東創成町の病院を雨竜通(現北三条東二丁目)の梅毒院に移して本院とし、梅毒院の称を廃した。翌二月、各郡病院規則を定め、官費治療を官費生徒・アイヌ・市在困窮者に限った。六月本庁事務機構改正により、札幌病院とし三課に分けた。九月には、雨竜通に新築・修築中の病院・病室等が落成開院し、入院・外来・娼妓梅毒検査からなる病院規則を定め、次第に様相を整えていった。山鼻・琴似両村に屯田兵村がおかれると、一時的ではあったが屯田兵の要望にこたえて仮医院も開設された(第五章参照)。
 当時の札幌の人びとがかかる病気にはどんなものがあったであろうか。表18は、八年の札幌病院札幌病院琴似出張所で扱った患者のうち病名ごとに患者数の多い順に並べたものである。これによると消食器病すなわち消化器の病気がもっとも多く、二一パーセントを占めていることがわかる。これは外人顧問が米食からパン食を中心とする食物改良を提唱したごとく、当時の日本人に多い病気であった。目立った病気には、不潔や衛生知識の乏しさゆえにおこる眼病・皮膚病、寒冷地に多い感冒それに僂麻質斯(リユーマチス)(リューマチ)があった。また、梅毒は初期と慢性とを合わせると四番目に多い病気で、小児を除く男女別罹患率では六六対三四と男性の方が女性の約二倍の患者数がいるなど、娼妓の検梅制度のみでは病気を減少させることは不可能な状態であった。さらに致死率の高い呼吸病あるいは伝染病の一種チフスも、すでにこのようにあらわれている。
表-18 明治8年札幌病院及び琴似出張所病名別患者数
順位病 名患者数
1消食器病1144(10)787(8)271(1)86(1)
2感 冒828(3)522178(1)128(2)
3間歇熱60043913922
4善悪腫病44530210340
5眼 病36020314017
6初期梅毒3312061214
7皮膚病3131717270
7外 傷313(2)237(2)5818
9慢性梅毒264(6)180(3)80(3)4
10僂麻質斯24417173
11生殖器病133(2)36(1)94(1)3
12呼吸病106(8)62(6)36(2)8
13脳及脊髄症71(4)37(2)30(1)4(1)
14聴器病67332212
15心及血管病59(3)46(3)13
16チフス45(2)39(2)6
17尿器病21192
18水 腫13(5)8(5)41
総 計5357(45)3498(32)1442(9)417(4)
1. ( )内は死亡数 2.『取裁録』(道文1632)より作成。

 札幌は、十年以降次第に人口も増してきたことから、札幌病院のみでは対応しきれなくなった(表19参照)。このため十二年頃より私立や公立病院設立の出願が相次いだ。十四年には、札幌区長山崎清躬代表の公立病院設立運動有志が、拠金一五〇〇円を募って開拓使に出願した。この結果同年五月、南六条西四丁目に公立病院が新設許可となり、開拓使から二一〇〇円が下付された(病院興廃文移録 道文五三〇三)。一方開業医には、六年開業の佐藤竜玄松本竜斎がいた。
表-19 札幌病院患者数(明治2年~14年)
医員患者数
明治22人46人
34206
47406
5212722
6123579
783569
8144485
9116351
10158347
111310798
121211868
131613918
142013645
開拓使事業報告』第4編より作成。

 また札幌病院の付属的機関に仮医学所、梅毒院産婆教場があった。うち仮医学所は五年十月に設立し、一五歳より二三歳までの官費医学生二五人と私費医学生二人を選抜して翌年一月開校したが、七年三月閉鎖となった。また産婆の良否が母子の生死に関わる問題として、十一年三月札幌病院で産婆教授科目を定めて産婦人科医三田村多仲等によって産婆養成も開始された。同年九月には産婆教場が旧女学校の校舎を使用して設けられたが、十二年一月に札幌本庁の庁舎が焼失して産婆教場仮庁舎となったため、これを札幌病院内に移転し、十四年一月には試験を行って村田かね外一二人がはじめて仮免状を下付されている。