周辺各村の
戸長役場の
戸長は、道庁初期には
札幌県と同様地元の出身者が任命され、または
札幌県下の
戸長がひき続き道庁下にても在職していた。表10は各村
戸長の変遷を示したものである。この中で気付かれることは、一人で二、三の
戸長を歴任している者もいる。たとえば
高田直一郎は①山鼻・
円山村、④豊平ほか四カ村、③上
手稲・下
手稲・
山口村の
戸長を歴任している。彼は宮城県から
山鼻兵村に入植した
屯田兵で、十九年以降道庁官吏となり
戸長を歴任し、最後は滝川・奈江村
戸長(二十五年十二月十五日任)をつとめている。
新田康次郎も二カ所の
戸長となっている。
①山鼻・円山村 |
氏 名 | 任 命 | 退 任 |
高田直一郎 | 19. 3. 4 | 19. 7.27 |
大堀忠八 | 19. 7.27 | 25. 7. 1 |
遠藤正明 | 25. 7. 1 | 31. 4.12 |
池田安太 | 31. 4.12 | 32. |
佐藤宗正 | 32.12.20 | 35. 9.12 |
斎藤亮 | 35. 9.12 | 35. |
伊藤与一郎 | 35.10. 2 | 36. 8.27 |
新田康次郎 | 36. 8.27 | 39. 3.31 |
② 琴似・発寒村 |
氏 名 | 任 命 | 退 任 |
佐藤只雄 | 19. 4.27 | 26.12.18 |
安孫子倫彦 | 26.12.18 | 28. 4.10 |
管野利行 | 28. 4.10 | 35. 8.18 |
新田康次郎 | 35. 8.18 | 36. 8.27 |
吉原兵次郎 | 36. 8.27 | 39. 3.31 |
③上手稲・下手稲・山口村 |
氏 名 | 任 命 | 退 任 |
伊藤信正 | 17.10.23 | 20. 5.31 |
斎藤在武 | 20. 5.31 | 21.10. 9 |
高田直一郎 | 21.10. 9 | 25.12.15 |
増川兵蔵 | 25.12.15 | 26. 6. 2 |
石井直英 | 26. 7. 5 | 27. 4. 5 |
奥村駒吉 | 27. 4. 5 | 28. 7.31 |
加藤鉄治 | 28. 8. | 30. 6. |
小野総治郎 | 30. 6.28 | 35. 3.31 |
④豊平・平岸・月寒・白石・上白石村 |
氏 名 | 任 命 | 退 任 |
三木勉 | 19. 1. 6 | 20. 4.16 |
高田直一郎 | 20. 4.18 | 21.10. 9 |
小田切孝栄 | 21.10.12 | 22.11.27 |
舟橋八五郎 | 22.11.27 | 35. 3.31 |
⑤白石・上白石村 |
氏 名 | 任 命 | 退 任 |
兜谷徳平 | 30. 7.14 | 31. 3.28 |
下田実 | 31. 4. 1 | 35. 3.31 |
⑥札幌・苗穂・丘珠・雁来・篠路村 |
氏 名 | 任 命 | 退 任 |
佐々木東馬 | 19. 1.27 | 20. 4.16 |
三浦林三郎 | 20. 4.18 | 26. 2. 2 |
加藤一魯 | 26. 2. 2 | 28.10.11 |
野々村良孝 | 28.10.11 | 29. 2. 5 |
新藤市左衛門 | 29. 2. 5 | 30. 2.12 |
松永泰 | 30. 2.12 | 35. 3.31 |
三浦久美子「札幌周辺各村の歴代戸長について」(『札幌の歴史』第16号)をもとに作成、一部訂正。 |
戸長となった人達の経歴は、多くが
札幌県・道庁などの官吏である。なかには教員、巡査、
屯田兵もまじっている。(一)
山鼻・円山村戸長の
高田直一郎、
大堀忠八、
遠藤正明の三人は
山鼻兵村の
屯田兵、ないしその子弟であった。(二)
琴似・発寒村戸長も
佐藤只雄、
安孫子倫彦までは
琴似兵村の
屯田兵である。(三)
上手稲・下手稲・山口村戸長の
伊藤信正、
斎藤在武も
上手稲村の移住士族(旧片倉家臣)であったが、その他は各村とは縁故がないところに赴任してきたために、村民との融和を欠くことも多く、軋轢や対立がしばしばみられた。特に
戸長任免の変化がはなはだしい上
手稲ほか三カ村は対立が激しく〝難治村〟といわれた。
たとえば「
手稲村の紛擾(ふんじょう)と
戸長の辞職」と題された道毎日(三十年六月二十九日付)は、以下のように伝えている。
札幌郡上
手稲、下
手稲、山口
戸長役場は
下手稲村字軽川にありて従前より苦情多く、
戸長の交迭も又極めて頻繁にして十郡各役場中第一の難所と称(とな)ひられ、当春来一、二の輩は
戸長排斥運動を始めたるも
戸長は強硬手段を取りて動かず。郡衙も亦例の如しと放任し居りたるが、万二
戸長の職務上不都合の廉(かど)あらんには、引(ひき)て郡衙の威信にも関係するより、茲(ここ)に秘密の探偵を遂げたるに、其排斥運動は大に野心を抱き
戸長は一点の瑕瑾(かきん)あるに非らざるを看破したりと。依(よっ)て
戸長は郡衙調査の周到なるに感激したるも、斯(かか)る村には長居は無用と両三日前辞表を差出したる趣なるが、
郡役所にても同村の
戸長の居付かざる為め、村方の事務も又挙がらざる点も之(こ)れあり、必竟(ひっきよう)三ケ村公共事業の為めに嘆すべき次第なりと云ひ居れりといふ。
ここには三カ村が、
戸長更迭の多い「難所」といわれ、「
戸長の居付かざる為め」に、事務や公共事業が停滞していることなどが詳細に述べられている。事実、表10からわかるように、増川兵蔵から加藤鉄治まで
戸長の交替が頻繁で、わずか半年しか在任しない
戸長もいた。
これらはやはり、村民との対立が原因とみられる。
また
白石村では三十年十月に、
戸長が「赴任以来日尚ほ浅きにも拘(かかわ)らず村治上至て冷淡にして、村民の感情を損せし事柄も少なからざる由」と伝えられ(道毎日 三十年十月十六日付)、税金の切符の配布をめぐり組長との齟齬(そご)が生じている。
戸長制自体がもとより民意を反映した自治制度ではなく、道庁がほどこす官治制度であったが、それだけに
戸長の個人的な人物・手腕に期待される面も当時は多くもっていた。なかには豊平ほか四カ村
戸長の
舟橋八五郎のように一三年間にわたり
戸長をつとめる〝良吏〟もいた。概して三十年代の
戸長は、兵村公有地にゆれた山鼻・
琴似村を含む
戸長を除き、在任期間は長くなっている。