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農産加工用原料の生産状況

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 札幌区および村々の主要農産物のなかには、麻、亜麻、藍など即農産加工用原料となる特用作物や養蚕による繭の生産など、いわゆる換金作物が多くあった。これら換金作物は市場動向に激しく左右されたが、麻、亜麻は北海道製麻会社で、大麦、小麦は官営事業の民間払下工場である札幌麦酒会社や製粉場で、また甜菜は札幌製糖会社でそれぞれ一定量が買上げられた。
 表17は、札幌区札幌郡で作付されていた農産加工用原料である蕓薹(うんだい)、麻、亜麻、葉煙草、藍、甜菜、苧麻、繭等の作付面積と収穫高をあげたものである。このうち蕓薹とはあぶらな(なたね)のことである。この表からみると蕓薹が作付面積も収穫高も年々増加しているのに対し、葉煙草、苧麻のように一時作付されたのみで、永続的な農作物にはならなかったものもあった。以下、札幌区および村々で重要度を占めたと思われる麻・亜麻、藍、甜菜、繭について状況をみてみよう。
表-17 札幌区札幌郡特用作物の作付面積及び収穫高・繭の産額(明治19~32年)
蕓薹亜麻葉煙草甜菜苧麻
反別収穫反別収穫反別収穫反別収穫反別収穫反別収穫反別収穫
明治19年23405546998332
20--36.3479211.0328242.13663414.
21-207.9199730.31865.130635273.
220.86283.134626150.347290429.
234.351158.117875236.816008394.030071209.6765447528.
2410.815460.810510159.317549046.411744216.7285544544.
258.16233.16577192.36410573.622705153.6254473564.
265.64868.311787224.79607576.323543285.51188260704.
277.57676.377614484.7324710157.165240330.01569332685.044
2812.313950.78493978.0802096112.22055896.6470014838.263
2960.460741.362451726.6117676282.03010039.5227320648.095
30199.12007142.1270092307.8141771293.619718630.607
31308.530825.6666223.018279630.012000753.312
32388.1425410.31545135.96086965.021989807.487
明治19~28年は『北海道庁勧業年報』,29~30年は『北海道庁統計書』,31~32年は『北海道庁拓殖年報』より作成。

〈麻・亜麻〉 商品作物として、亜麻に先がけて栽培されていたのは大麻すなわち麻である。開拓使時代以来、開拓農家の収入源として重要視され、指導奨励が行われた。その後、北海道における大麻の生産量は年々増大したが、十五年をさかいに官による買上が廃止されたこと等が引きがねとなって大麻生産は次第に衰えた。ところが、二十年に北海道製麻会社が創立され、道庁の奨励に基づいて作付面積は再び増加しはじめた。設立当初製麻業は、原料の大半を苧麻や大麻にあおいでいたからである。表17で二十一年をさかいに増加するのはこのためである。しかし、その後数年のあいだに亜麻の比率が麻に代わって急速に高まり、次第に亜麻加工へと移行していった。こうして亜麻生産は二十三年からぐんぐん増加し、日清戦争後の製麻会社の事業拡張にともない、二十八年の収穫高を一〇〇とした場合、三十年には約一八〇の数値になるなどめざましい伸び率を示した。これはおもに軍需用品として亜麻製品の需要が高まったからである。このため札幌区および村々の亜麻生産農家では製麻会社と特別契約を結び、二十九年には札幌区内だけでも作付面積は九七町歩余にもおよんだ(第七章四節参照)。その後、三十一年には不況を反映して作付面積が激減し、一旦は回復をみたが、おもな作付地域も石狩方面から胆振・空知方面へと移行していった。
〈藍〉 藍栽培は、徳島県人が十四年資本金一万八〇〇〇円をもって興産社を設立し、十六年篠路在住の同県人に行わせたのが始まりである。二十二年、興産社は札幌桑園内に土地の貸下を受け、製造所を建築して本社とし、札幌区をはじめ札幌郡および空知、石狩、小樽、余市、夕張、千歳、浜益各郡の農家から葉藍を買上げた。札幌区札幌郡の場合、藍の作付面積および収穫高は表17のごとくである。これによってもわかるとおり、藍栽培は二十年代に盛大に行われるようになった。藍栽培農家は篠路村を中心に丘珠村白石村等一一カ村におよんだが、二十一年より五カ年間の琴似村の一反歩平均収穫高は三四貫、また二十七年の丘珠村の一反歩純益金は金一〇円前後に達した(北海之殖産 三七、四五号)。結局のところ藍栽培は二十七年の作付面積一五七町歩余、収穫高六万五二四〇貫を最高に、三十年代には次第に衰退していった。ちなみに二十七年八月より二十八年七月まで一年間の興産社の事業概要を示すと、自作藍作付反別は二五町六反歩、その収穫高は干葉七六二九貫であり、これは前年よりも五貫五〇〇目余の増加であった。このほかに一年間に購入した葉藍は七万二〇一四貫二六〇目で、四万四七五八貫余の増加であった。この原因は、作付反別の増加と、日清戦争の影響により運賃高騰のため本州の需要者が購入を見合わせたため、一手に購入できたことによるという。興産社では葉藍のまま、あるいは染料にしておもに新潟、愛知、青森、山形方面に販売を行った(同前)。
〈甜菜〉 十九年、堀基らの計画で札幌製糖会社の創設が進められ、二十一年資本金四〇万円で設立された。同年、苗穂村の宮内省の御料地三万八九六二坪を有料貸与され、製糖機械をドイツより購入し、二十三年営業開始した。これは北海道内では紋鼈製糖についで二番目の製糖会社である。札幌製糖会社は営業開始以来北海道庁等の手厚い保護を受けたが、二十六年に一度黒字になったのみで、金融難、原料不足、糖価下落、重役告訴事件等の悪条件が重なって営業は常に不安定で、利子下付および利益補給年限の満六カ年をもって一応終了することになっていたため、二十九年をもってついに操業を中止した。このため表17のごとく、農家の甜菜栽培は二十三年より二十九年までのわずかの期間に過ぎなかった(北海道農業発達史)。
〈繭〉 開拓使時代以来官の手厚い保護を受けた養蚕は、道庁時代に入り、技術の進歩により種紙の数に比較し収繭は増加する傾向をみせた。二十二年道庁では、蚕業伝習所を札幌桑園内に創設し、蚕業篤志者の養成を行った。それとともに二十一年からは巡回教師を札幌近村をはじめ、石狩、空知、室蘭、亀田諸郡に派遣し、毎戸につき養蚕改良法を教授した。
 繭の産額は表17に示したとおりであるが、二十年代はじめに五〇〇石を超え二十八年には八〇〇石を超した。三十年代以降は多少の増減を示しつつも平均七〇〇石余の産額を維持している。
 養蚕は、その年の気候と桑の成育状況あるいは蚕の病気・人手の有無に左右され、養蚕農家はきわめて不安定な状況におかれた。このため日清戦争時には、屯田兵の出征も加わって掃立枚数は半減した。その後、三十年代に入って盛り返したが、物価騰貴による養蚕雇人の賃金や桑葉の高騰によって養蚕農家は少なからぬ打撃を受けている(北海之殖産 八六号)。
 札幌区札幌郡で生産された繭は、多くが札幌製糸場(二十一年十月足立民治今井藤七に払下げ)と安田製糸場(二十一年十一月安田徳治に払下げ)に買上げられた。ちなみに二十七年中に安田製糸場が買上げた繭量は、三〇九石二斗五升一合で、七四一六円四九銭一厘であった。おもに販路は横浜であった(同前 六一号)。両製糸場買上の一方、京浜地方の商人も本道繭仲買商人と競争で繭を買付けた。もっとも三十一年の場合、不況のため京浜の商人が買付を見合わせたためいずれも札幌繭仲買組合の買付となっている。同年の札幌製糸場の予定買付高は一一〇〇石余、また安田製糸場でも例年の倍の四〇〇石を見込んでいた。三十年代の養蚕農家は、技術も逐次進歩して増加し、札幌周辺より当別、月形、奈井江方面へと移行していった(同前 九九号)。