風俗

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箱館風俗書

 安政元(1854)年町年寄が提出した『箱館風俗書』には、問星・小宿附船五十集郷宿六箇場所宿・旅人宿・大工・木挽・船大工・鍛冶・桶屋・古道具屋・紺屋・豆腐屋・菓子屋・風呂屋・三半船図合船・髪結・漁師・売女渡世・女芸者・後家稼など、それぞれの生業が紹介されている。それによって、その若干を説明すれば次の通りである。
 
問屋小宿については、しばしば述べたところであるから、これを省略する。
附船 これは地船他船に限らず、懇意の廻船が滞船中、それぞれ内用向きの用事を達するもので、たとえば水主らから酌取女や酒食などを頼まれれば、それを口入れ世話をしたり賄ったりすることを渡世としたもので、荷物売買などには一切行わないことになっていた。
五十集 多く鰪澗、神明町仲町地蔵町辺に住居し、漁師らが捕ってきた生魚類を、仲間が集まって差値して落札し、市中で売りさばいた。これには1人につき役銭300文を上納して鑑札を取った。
郷宿 これは箱館近郷32か村の村役の者が、年々村用で当地へ出た場合止宿する宿である。また願出などがある時は、右の宿の者が付添って役場へ行き、諸用の手助けもした。このため年々その村に応じて手当賃を出していた。もちろんこれは役場から申付けたものではなかった。
大工 市中手間料1人前358文、食事は雇人の方で賄った。弟子ならびに子弟は若年の内は半作料で稼いだ。大工頭というのがあって役場から扶持を頂戴して取締り、外に小頭というものもあって共に取締り、町方出火の際は一同駆付けて消火に当たった。
木挽 市中手間料は角口5寸に2間、1口に付銭60文ずつの割で稼ぎ、また相対で1日何程と取り決めて働くこともあった。
船大工 これは弁財船並びに小船等の破船、作事修理共引受けた。1日手間料は458文、または3日で1分位であった。町方で出火の時は消防にも当たり、小頭1人を立て、万事取締った。
鍛冶 多く町はずれに住居して5軒ほどあり、また築島辺にも同職の者があった。すべて鉄物類を渡世とし、代料はその品細工によって取決められた。町方で出火の際は仲間一同駆付けて消火にも当たった。右の人数のうちから小頭1人を立てて取締った。
紺屋 これは染屋のことで、山ノ上町に2軒よりなかった。奉納の旗や供看板(半天)なども染めたが、上品な物はできなかった。
豆腐屋 大豆の時相場の高低にかかわらず、1丁24文に定められた。
菓子屋 干菓子、蒸菓子などいろいろ注文次第つくったが、余り上品なものはできなかった。
風呂屋 毎日卯の刻(午前6時)から戍刻(午後8時)まで営業する仕来りで、年中休日は7月16日、正月16日の両日であった。男女混浴で風呂銭は大人7文、子供5文ずつであった。
三半船 これは35石から54石までの船をいい、主に漁船に用いた。(ここではその船頭)
図合船 これは2、3人ずつ乗組む船で、当所の海岸から地回り海岸六箇場所辺の漁業や、諸荷物積取り、小回りに雇われた。定めの運賃を荷主から受取った。
漁師 多く山ノ上町山背泊、鰪澗、仲町弁天町端、地蔵町枡形外などの海岸に居住し、漁業を渡世とした。春鰊漁を専らにする土地柄なので、春の彼岸から75日の間を始納中(漁期の意)と唱え、役場へ漁師らから鳴物停止を願い出て、古来の通り鉄砲、鐘、鉦、大太鼓、合わせ船(造船)、火葬等すべて鳴物の類の停止が仰せ出され、わけても夜分騒がしいことのないようつとめさせられた。鰊が大漁であれば市中小前の者まで豊かになり、諸回船の売買積入れもにぎやかになった。この漁師仲間には表立った行司・頭役はいなかったが、1、2人を世話役小頭といって取締方をつとめた。
売女渡世 これは山ノ上町にあって茶屋と唱え、以前は芝居、浄瑠璃稽古、軽業などの興行の節、料理仕出し、または酌取女などを差出したものが32軒あって、追々人家も増加したから右の料理茶屋と唱えるもの21軒に限り、その他は客引手宿とか下宿などといって、下宿では三味線、太鼓などは相成らずとし、酌取ばかりにしたという。当所、よそに限らず生活難渋の娘を年季奉公に抱え、また壮年の者も抱えて、売女、芸者などに仕立て、客を寄せ、料理賄いなどして営業した。右の仲間内の行司を2人役場から申付けて取締らせた。
女芸者 これは多くは山ノ上町で裏借家などを借りて居住するもので、以前は座頭を呼び寄せ、座敷音曲などしていたが、この時期には抱女または難渋者の女子があれば、三味線などを習わせ、もっばら女芸者に仕立て働かせた。
後家稼 これは小路裏借家や細小路に住む者で、一旦よそに奉公に出て帰った女、あるいは当所で年季奉公の明けた女、または早く夫に別れた者や生活難の女子など、主立った親類のない者の、内証稼ぎのことでもあり、衣類なども素人姿に仕立て、あまり人目に立たないようひそかに船手などを相手にする女たちである。

 
また『蝦夷実地検考録』は、風俗について次のように記述している。
 
風俗人情大抵上方に似て鄙劣也。衣服は清麗を好み、各礼服を具ざる者なし。微賤の者は粗なる厚織(あつしおり)の袖窄を被たり。猾なる者は細き厚織に絹糸を組交て、其価却て紗綾、縮緬にも過たりとて矜(ほこ)る者あり。人々侈麗を競い、書画、家具を争蔵す。然れども利を射、慾を恣にし、諸貨器什日用の物値尤貴く、互相誣罔(ふもう)して習俗賭場のごとし。冠婚葬祭は尤芬華を務む。棺槨に覆う白布をめでたしろといい、送葬に被る上下また被(かつぎ)をいろとよぶ。いろとは喪服にいう古言にて、此国に遺れるも珍らし。婦女は冶容媚態有り、淫風行われて貞操あるもの少なし。然ども簪笄などを撰ばず、紛飾を専とせず。雪中氷上をも水を汲、薪を拆を厭わず。皆婦女の務とす。凡遐境の民昔より官吏、士人を見ること稀なれば、甚畏怖したることなるに、近来慈仁の御制度に甘え、昵ひ馴れて軽侮の意を生じ、制令を非議し、官府を蔑如する状あり。郷村の馬丁牛走まで、今は吏士に遇ても路を避るなどの礼もせず、剰え外蕃の徒上陸遊歩して吾人と肩を摩り、彼亦甚肆意横行なれども禁ずること難し。武士は武道の穿鑿、武器の吟味薄く、巫祝、緇(し)徒は其道を学はず。殊に僧侶は色に耽り、酒に湎し飽ことを知らず。破戒無慚なれども傲慢矜驕にして、愚夫愚婦を欺き、財を貪り、凡仏寺の富饒ならざるはなし。飲食の奢、月を追て盛になり、菓子の甘美なる三都にも減ぜざるほどの精製を竭(つく)せり。


夜廻りの図 「松前記行」より

 更に安政2年、平尾魯僊の手になる『松前記行』にも、当時の箱館の風俗や生活を細かく述べているが、それによると、家の構えは瓦葺や漆喰なども多くはなく、土蔵造りは4、5軒ばかりである。夜店はないが四ツ(午後10時)過ぎまで往来多く、特に大町辺は宵宮のようなにぎわいで、按摩や占い師、蕎麦、果物などを売る声がさかんである。富家の男も短い着物を着て騒々しく歩き、大坂の様子と似ている。女は貧富ともにふだんは「ツゾレ」を着、夏は「アツシ」を着る。50過ぎた女でも島田を結い、帯を後にむすび2幅の前垂(まえだれ)など江戸風である。というようなことが述べられている。また地方から市中へ野菜、薪炭など売りにくる男女の服装を詳記し、「はなはだ伊達の粧い」といい、七夕、盆、正月などの行事の模様や、男子元服のとき烏帽子親(えぼしおや)を求め、女子にも鉄漿親(かねおや)がある(ただしこれは少数で、ない人のほうが多いから、結婚しても歯を染めない女が多い)などのこと、葬式、夜回りのこと、特に箱館には長寿者が多いなど、さまざまのことを紹介している。