函館商人の系譜

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 明治21年刊行の柏倉菊治著『函館新繁昌記』上編には、地価および公債証書の額によって資産分けした、当時の函館の財産家の一覧表が、「財産有伝競部(うでくらべ)」の名で収められている。表6-17は、このうちからその出自や商活動がわかるものを選んで作成した表である。
 
表6-17 函館における商人の事例
旧特権商人
氏名
明治21年の財産
明治21年の住所
近世(系譜)
明治初年~明治10年代
明治20年~30年代
杉浦嘉七1万円以上末広町場所請負人漁場経営、第百十三国立銀行頭取 
藤野四郎兵衛6千円~1万円東浜町場所請負人漁場持汽船所有、倉庫業、牧場経営、
海産物委託販売
佐野定七6千円~1万円亀田村場所請負人醤油醸造・販売 
井口兵右衛門6千円~1万円末広町沖の口問屋戸長、第百四十九国立銀行取締役、区会議員 
田中正右衛門6千円~1万円船見町沖の口問屋漁場経営、海官所付き問屋、西洋型船所有、
第百十三国立銀行取締役兼支配人、
北海道共同商会頭取
函館汽船会社社長
栖原角兵衛6千円~1万円大町場所請負人漁場持、西洋型船所有、硫黄採掘汽船海運、缶詰製造、事業中止
新興商人
相馬哲平6千円~1万円弁天町日雇人夫米穀商、金銭貸付百十三銀行頭取
渡辺熊四郎6千円~1万円末広町官船籍館丸乗組商法方、
海産商
洋品店、小間物、時計、函館器械製造所、
回漕組
倉庫業
辻松之丞6千円~1万円仲浜町船大工造船業(西洋型帆船製造) 
山田慎6千円~1万円会所町 北海道閑進社の創立に参加、山田銀行創立 
皆月善六6千円~1万円幸町船乗り硫黄採掘 
今井市右衛門6千円~1万円末広町雑貨行商洋物店 
泉藤兵衛5千円~6千円曙町菓子商、漁場経営硫黄採掘、開拓使製造品大取次人、
第百十三国立銀行取締役、田畑所有
 
平田文右衛門5千円~6千円末広町呉服太物商和洋建築鉄物商 
忠谷久蔵5千円~6千円大町北前船経営荒物兼海産商、西洋型船所有、漁場所有、
渡島組(汽船海運)
函館汽船会社取締役、醤油醸造
逸見小右衛門5千円~6千円末広町 菓子行商、菓子製造、砂糖麦粉販売 
島野市郎次5千円~6千円西浜町造船業西洋型帆船の製造 
平塚時蔵4千円~5千円大町 西洋雑貨、呉服太物販売 
杉野三次郎3千円~4千円弁天町 荒物商 
伊藤鋳之助3千円~4千円富岡町商店店員活版印刷、新開発行 
岩船蜂次郎3千円~4千円弁天町行商 太物商 

小林真人「明治二・三〇年代の函館商業と商人」(『地域史研究はこだて』第4号)より
 
 財産額6000円以上の最上位の6名は、杉浦、藤野、佐野、栖原が場所請負人、井口、田中が沖の口問屋と、いずれも旧特権商人の系譜をひいている。杉浦が浦河、様似など、藤野が網走、斜里など、栖原が増毛、宗谷などの諸郡の漁場持に任じられ、場所請負制期とは比較にならない負担を負い、しかも、生産力が低く、広大な地域を割りあてられたうえ、漁場を拡大し、漁民を導入すればそれだけ負担が増加するという矛盾をかかえて、退嬰的な経営にむかわなければならなかった事情については、すでにみたところである。旧問屋商人も、断宿業務を失ったうえ、海関移出入税の中止にともない、単に海関所業務の代行者になり、新興商人の台頭により移出入荷物に対する支配力を失い、急激に衰退した。
 「田中家記録」(道図蔵)の明治11年の条に
 
 抑モ古来函館ノ商業タルヤ問屋株式ナルモノアリテ、毎歳諸国ヨリ来往スル船舶輸出輸入ノ物品共ニ其手ヲ経サルモノナク、自カラ専権ヲ有シテ売買ノ機関トナレリ。故ニ損ス所少ナカラスト雖モ、収利亦随テ大ナリ。当家ノ如キハ夙ニ問屋株ヲ以テ其衝ニ当リ、売買頻繁営業盛昌ヲ極メタリシカ、開拓使設置以来旧例ヲ解キ、荷物売買ヲ営業スルニ至リ、且ツヤ人智日々進歩シ、形勢月々変更スルヲ以テ時運ノ赴ク処久シク問屋ヲ営ムノ不利ナルニ際セリ。若シ夫レ依然多数ノ仕人ヲ雇使シ、莫大ノ雑費ヲ支弁セシカ、営業収支ハ償フニ足ルモ将来時勢ノ一変スルヤ当主ノ確認スル所ニシテ、終ニハ資本ヲ漸減シ収拾スヘカラサルニ至ルヲ如何セン。是ヲ以テ当主決意スル所アリ。断然此営業ヲ廃セント欲ス。然レトモ旧来世々声価ヲ博シタルノ故アルヲ以テ一時ニ之ヲ廃停セハ、諸方取引先ノ取纒メモ付キ難ク、又永年雇仕スル仕人モ忽チ帰ラン所ヲ失テ身ヲ誤ランノ慮アルカ故ニ漸次其模ヲ少縮シ、取引先其他中外百般ノ関係ヲ整理シ、後日、故情ナカラシメ、而シテ後業ヲ廃スル事ニ決セリ。此ニ於テ此改革ヲ行フ。之ヲ改革第一ノ着手トス。

 
 とあって改革の具体的内容はわからないが、海関所付問屋を廃止する方向にむかっていた。また、旧特権商人は、多くの使用人や古くからの取引先をかかえているため家政改革は困難をきわめた。
 特に道外に本店をもっていた藤野、栖原のような旧請負人の場合には、出店の最高責任者名義で事業を行ってきた関係で、経営が悪化すると家政改革名義変更問題がおこり、訴訟沙汰に発展する場合もみられた。旧場所請負人の多くは漁場経営に従事していたため、3県期の不況による魚価の下落により被害を蒙ったため、家政改革は困難をきわめた。栖原の場合などは、支配人の不都合や代務者の経理乱脈が露顕し、同家の漁業関係事業のすべてを三井物産に委ねることになった。
 一般に、旧幕期の特権商人は没落の一途をたどり、北海道の近代産業の形成にあずからなかったとされるが(湯沢誠「北海道における地場資本の展開について」農林省農業総合研究所北海道支所『研究季報』17号)、藤野の場合は、明治10年代の家政改革名義変更問題をのりきり、明治20年代には缶詰業、汽船海運業、倉庫業、等々に進出しているし、杉浦嘉七、田中正右衛門も家政改革、旧事業の切り捨てをおこない、明治10年代から20年代にかけて函館経済界の重鎮として活躍する。佐野定七は明治初年に所有漁場を官捌によって引き上げられたため、醤油醸造・販売業に転進した。
 新興商人についてみると、明治初年から10年代にかけて物品販売業にかかわって財産をなしたものが多い。のちに地方的財閥にまで成長する相馬家、渡辺家の開祖ともいうべき相馬哲平、渡辺熊四郎はその例である。相馬哲平は日雇人夫から身を起し、多少の資をえて独立、米穀商を営んで産をなし、渡辺熊四郎は明治初年に金森商店を開いて洋物を扱い、明治7年には支店を開いて小間物、洋食料品を販売、その後、時計、船具、砂糖、西洋織物など種々の商業を営んでいる。この系列に属する者としては、洋物を扱った今井市右衛門、和洋建築鉄物商の平田文右衛門、砂糖麦粉販売の逸見小右衛門、荒物商の杉野三次郎、太物商の岩船峰次郎などをあげることができる。明治初年から20年代初めまで北海道の内国貿易を独占していた函館の繁栄のもとで商機をつかみ、商店経営で着実に利益をあげたものが財をなしているのである。船大工から造船所を起した辻松之丞、島野市郎次、印刷業、新聞発行の伊藤鋳之助、硫黄採掘業の皆月善六、泉藤兵衛などは新しい技術や文化を入れ、あるいは時代にあった事業を起こして成功した例である。
 こうしたなかで注目されるのが忠谷久蔵である。北前船の故郷ともいうべき加賀橋立の出身で、すでに明治初年には大和船数隻を所有して北前船経営を続けるとともに、明治4年に出張店を函館に設け、荒物および海産商を兼業した。その後、西洋型船を所有するとともに、道内に鰊、鮭の漁場を経営した。明治19年に有志とはかって渡島組を結成し、函館港における共同出資の汽船会社の先鞭をつけ、のちには個人船主として近代的海運業へ脱皮し、長子久五郎の代には露領漁業に手をそめた。
 函館には忠谷のほか平出喜三郎、久保彦助、西出孫左衛門などの著名な北前船主、その他多くの北前船関係者の活動がみられた。久保彦助は明治10年代に函館に支店を設け、雑貨荒物を販売し、やがて海陸物産の取扱いや漁業などに手をひろげており、平出喜三郎も、維新戦争の際に、持船で維新政府軍の兵器、食糧を運んだのが縁で、函館で商業、漁業を営み、2代目喜三郎の代には、平出商店のほか、合名会社函館塩販売所、奥尻鉱山株式会社を経営し、露領漁業にも進出した。西出孫左衛門の支店設置は、明治22年で、海運、海産商や露領漁業をおこなっている。
 これら北前船主の本来の営業は、米、塩、日用雑貨、漁業用品を府県諸港で仕入れて北海道で売り、かわりに鰊締粕その他を購入して道外で売り捌く買積みであり、水産物の売買や北海道で必要とする諸品の仕入に精通していた。彼等の函館の商店経営も、その延長上にあったとおもわれる。また、末期の北前船が露領漁業に従事したことは、周知の事実なのである。
 
 第6-18 漁業資金仕込業者
仕込金高見込
住所
氏名
25万円
15万円
10万円
同上
7、8万円
5万円
同上
同上
同上
3万5000円
3万円
同上
同上
同上
2、3万円
同上
2万円
同上
同上
1万5000円
同上
同上
1万円
同上
同上
東浜町4
西浜町19
船場町21
西浜町32
同町19
仲浜町22
弁天町49
西浜町22
同町35
末広町34
弁天町21
東浜町35
同町2
仲浜町18
鍛冶町73
旗籠町79
会所町16
豊川町45
地蔵町26
鶴岡町35
弁天町54
同町21
富岡町5
元町12
豊川町40
藤野四郎兵衛支店
小熊幸一郎
鎌田重吉支店
八木亀三郎支店
西出孫左衛門支店
本庄丑吉
橋谷巳之吉
久保彦助支店
酒谷長作
浅岡梅吉
品田弥一
石塚弥太郎
前田嘉左衛門
平出喜三郎
鳥海義暎
駒井弥兵衛
岡本康太郎
保田七蔵
工藤嘉七
阿部寅四郎
浜根岸太郎
杉野三次郎
黒江幸弥太
角田慶太郎
橋本金太郎

 『函館ニ於ケル銀行以外ノ金融機関』による
 
 表6-17の資産家に、これら北前船主出身者が忠谷久蔵しかみえないのは、彼等の多くが、故郷から住居を移すことがなかったからであろう。市中の土地所有と、公債証書の額による資産の評価では、活発な商活動を行っていても、資産家としては登場しない。北前船主の経営は、実際には、この支店が中心なのであり、その意味では地場の資本として扱ってもよいのである。
 表6-18は、大正2年9月付、日本銀行調べの『函館ニ於ケル銀行以外ノ金融機関』に掲載の函館の漁業仕込業者である。旧場所請負人の藤野四郎兵衛支店が首位にあるほか、西出孫左衛門支店、久保彦助支店、酒谷長作、平出喜三郎北前船主系商人が名をつらねているのである。漁業仕込業者とは、漁業家から漁獲物の販売を委託される水産物取扱商人であることを考えると、北前船主系商人は、明治2、30年代に、露領漁業の発達を軸に函館が水産物の集散市場としての地位を確立する過程で水産物取扱商人として成長してきたと考えられる。明らかに表6-17の新興商人とは、系譜も、商人としての形態も異なるのである。表6-18の北前船主系以外の仕込業者も、大部分は明治2、30年代に漁場経営や水産物の取扱いで台頭してきた商人・漁業家たちなのである。