銅・鉛・亜鉛・硫化鉄・アンチモニー

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 これらの鉱床は、新第三紀中新世末期(約800〜500万年前)に生成した浅熱水性(せんねつすいせい)鉱脈(黄銅鉱(おうどうこう)・方鉛鉱(ほうえんこう)・閃亜鉛鉱(せんあえんこう)・黄鉄鉱(おうてっこう)・輝安鉱(きあんこう))が主体であるが、一部に接触交代(せっしょくこうたい)型の塊状(かいじょう)鉱床(黄鉄鉱(おうてっこう))もみられる。尻岸内川中流鉱床地帯の主要鉱山の分布を図1.26に示した。
 また、古武井川支流暗渠の沢上流には、主に黄銅鉱・閃亜鉛鉱・方鉛鉱・黄鉄鉱などの密雑したものに、重晶石(じゅうしょうせき)を伴う黒鉱(くろこう)鉱床類似のものもあるといわれている。これらの鉱床の大部分は、恵山町の北西部に分布し、一部のものは戸井町の周辺に分布している。前者は、基盤岩類並びにその中に貫入するデイサイト(石英安山岩)を母岩とするものが多く、後者は、古武井層並びにその中に貫入する玄武岩質岩類・デイサイトなどを母岩としている。これら母岩に見られる変質作用には、絹雲母(きぬうんも)−石英−(黄鉄鉱)組合わせのものと、石英−(葡萄石)−(緑簾石(りょくれんせき))−(黄鉄鉱)組合わせのものとがあるが、大部分の浅熱水性鉱脈には前者の変質が見られる。また、塊状鉱床にも前者の変質が見られる。東亀田鉱山・笹小屋鉱山・白銀鉱山付近の銅・鉛・亜鉛鉱脈の一部にのみ後者の変質が見られる。

図1.26 尻岸内川中流鉱床地帯の鉱床分布図(矢島淳吉原図)

 
東亀田鉱山(旧泉川鉱山)(藤原・国府谷、1969)
 この鉱山は、尻岸内川支流の笹小屋沢にある。昭和38年(1963年)に造材人夫によって拾われた転石(てんせき)に端を発し、路頭が発見されたもので、以後、泉達夫・白川雄大の両氏によって剥土や、ボーリングによる探鉱が行われたが、鉱況が思わしくなく昭和41年(1966年)春休山した。
 鉱床は、先第三紀の砂質粘板岩中胚胎(はいたい)される黄鉄鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・黄銅鉱−石英脈である。鉱脈は、膨縮の著しいレンズ状鉱体が剪断帯(せんだんたい)にそって雁行状(がんこうじょう)に配列しているもので、水平延長に約200メートル追跡されている。走向・傾斜は、N50度〜60度E・60度〜80度SEで、脈幅は平均1メートル程度である。この露頭品位はAu・tr(痕跡)、Ag23.9グラム/トン、Cu2.39%、Pb4.09%、Zn5.59%、S5.93%である。
 
笹小屋沢鉱山(藤原・国府谷、1969)
 この鉱山は、東亀田鉱山からさらに約1キロメートル上流にさかのぼった笹小屋沢の川岸にある。鉱床の発見された時期は明らかではないが、現在は崩落した金通押坑道(ひおしこうどう)(鉱床の探査または採掘のための水平坑道)の跡が残っている。
 鉱床は、東亀田鉱山と同じく先第三紀の砂質粘板岩を母岩とするもので、数か所に露頭がみられる。金通押坑道のある主脈は黄鉄鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・黄銅鉱−石英脈であるが、大部分石英で硫化鉱物は少ない。走向・傾斜はN60度〜80度E・70度〜80度SEであるが、北東方向の末端でN25度Eに彎曲し、80度NWと傾斜がかわり分岐脈を派生している。延長は約20メートルが確認され、脈幅は0.4〜1.0メートルである。
 
白銀鉱山(旧福村鉱山)(藤原・国府谷、1969)
 この鉱山は、尻岸内川支流の喜四郎沢にある。当初、金銀を目標にして探鉱をしていたが、昭和19年(1944年)にアンチモニーの露頭を発見し、昭和22年頃(1947年頃)まで、探鉱を進めたが、鉱状がよくなく休山した。その後、昭和38年(1963年)4月に、日本アンチモニー工業株式会社の手により探鉱が進められたが、これも、同年秋には休山した。この間、Sb10%のもの50トン、Sb20〜30%のもの20トンが採掘され、うち12トンが売鉱されている。
 鉱床は、輝安鉱−石英脈と、黄銅鉱−方鉛鉱−閃亜鉛鉱−石英脈とあるが、前者は、粘板岩・チャートなどを原石とする硅化帯中、あるいは硅化帯とデイサイト(石英安山岩)との間に発達するN40度〜70度E方向の剪断帯(せんだんたい)中に胚胎(はいたい)され、ごく一部の分岐脈は、デイサイト中にも認められる。後者は、輝安鉱−石英脈の付近に接近してみられるものと、デイサイト中に胚胎されるものとがあるが、輝安鉱−石英脈の付近に接近してみられるものは石英に乏しい。坑道は、アンチモニー鉱床に対して15本掘進され、このうち5本の坑道で着脈している。うち1本は、昭和38年(1963年)に本坑鉱床の下部を狙って立入坑道を約243メートル掘進したものである。
 この鉱山のアンチモニー鉱床のうち、4号坑(本坑)は最も良質なもので、一部掘下り採掘も行われた(写真1.15)。アンチモニー鉱床は、珪化した砂質粘板岩とデイサイトの境界付近に発達するN40度E・30度〜40度NEの剪断帯(せんだんたい)にそって胚胎されるもので、その彎曲部(わんきょくぶ)に富鉱部(ふこうぶ)が生成されている。鉱床は、膨縮の著しいレンズ状鉱体で、上盤側に細脈分岐化あるいは鉱染(こうせん)状になっている。このレンズ状鉱体は、延長約10メートル、平均1.5メートルの幅である。鉱石は、輝安鉱と石英を主体としているが、ときに硫化鉄鉱をともない、また、辰砂(しんしゃ)(HgS)の伴われることもある。また、露頭では褐色〜白色の酸化アンチモン鉱にかわっていることもある。
 鉱石の品位はSb10%であるが、富鉱部はSb25〜30%で、Au2.0グラム/トン、Au2.0グラム/トンが含まれている。また、上坑坑口付近の砂質粘板岩中に、脈幅30センチメートル前後の膨縮に富んだ黄銅鉱−方鉛鉱−閃亜鉛鉱−石英脈が見られるが連続性はない。この鉱石の品位は、Cu2.5%、Pb9.37%、Zn21.96%である。

写真1.15 白銀鉱山本坑と輝安鉱鉱床露頭

 
喜四郎沢上流および小滝沢の鉱床(沢ほか、1961)
 この鉱床は、白銀鉱山の上流約500メートルの喜四郎沢および小滝沢にある。
 鉱床は、先第三紀の砂質粘板岩・粘板岩・チャートおよびデサイトを母岩とするものがあるが、大部分は後者の中に胚胎されている。露頭は、喜四郎沢本流に2か所、その支流に3か所、小滝沢に5か所みられ、その一部は金通押坑道が掘進されている。喜四郎沢本流のものは、この地域で最も良好なもので、黄鉄鉱が多量に鉱染した中に、閃亜鉛鉱・方鉛鉱が散点している鉱脈と、黄鉄鉱と方鉛鉱がわずかに散点している石英脈とがある。
 N70度〜80度E・70度〜80度NWの走向・傾斜を示し、脈幅は0.5〜1メートルである。支流のものは黄鉄鉱・方鉛鉱を少量散点する石英脈で、N80度W・直立の走向・傾斜を示し、脈幅は70センチメートルである。小滝沢のものは黄銅鉱・閃亜鉛鉱および少量の方鉛鉱・黄鉄鉱を散点している石英脈と、黄鉄鉱以外の硫化鉱物をほとんど含んでいない石英脈および粘土脈で、前者は、N80度E・70度NWの走向・傾斜を示し、脈幅は30センチメートル前後である。後者は、E−WからN80度W・40度〜55度Sの走向・傾斜を示し、脈幅は0.6〜1メートルである。
 
女那川鉱山(沢ほか、1961)
 この鉱山は、尻岸内川支流の堤ノ沢下流にある。この付近は、大正10年頃(1921年頃)、金および銅を目的に探鉱されたことがあるが、長期間放棄されていた。その後、昭和24年(1949年)佐藤万蔵が硫化鉄鉱の露頭を発見し、鉱業権を設定すると共に、翌25年(1950年)から坑道探鉱をはじめた。これを太平鉱業株式会社が買収し、昭和26年(1951年)から再び探鉱をはじめたが、昭和28年(1953年)に休山した。この間、硫化鉄鉱(S30.0〜31.5%)を3,211トン採掘している。その後、昭和31年(1956年)から32年(1957年)にかけても、金・銀・銅を目的として千歳鉱山株式会社が探鉱を行っている。さらに、昭和37年(1962年)にも同社の手によってボーリング探鉱が行われている。
 鉱床は、粘板岩・チャート・石灰岩および石灰玢岩(ひんがん)などを原石として変質した絹雲母(きぬうんも)−珪化岩を母岩とする緻密な塊状鉱体である。個々の鉱体はN55度〜80度Eの走向を示すが、配列方向はN50度〜60度Wで雁行(がんこう)して並んでいる。個々の鉱体の規模は、幅2〜10メートル、長さ10〜20メートル推定される。鉱石鉱物は、主に黄鉄鉱からなり黄鉄鉱中に包裏物(ほうりぶつ)として、少量の磁硫鉄鉱(じりゅうてっこう)・磁(じ)鉄鉱・黄銅鉱・閃亜鉛鉱などが認められる。また、燐灰石(りんかいせき)や蛍石(ほたるいし)を伴うこともある。
 この鉱床は、スカルン帯の形成にひきつづく一連の鉱化作用によって生成されたもので、この後期にあたる低温期の産物と考えられる。すなわち、スカルン期から高熱温水期にかけた珪酸塩鉱物および鉱石鉱物の形成は、非常に小規模のものであり、鉱化作用は低温熱水期の黄鉄鉱の形成を主体としている。成因的には、接触交代鉱床の範ちゅうに入るものと思われる。
 
日の浜銅山(藤原・国府谷、1969)
 この鉱山は、古武井川中流の一支流にある。昭和37年頃、金通押探鉱が行われたが、鉱況が思わしくなく現在は休山中である。
 鉱床は、珪化したデイサイト(石英安山岩)を母岩とする四面銅鉱(しめんどうこう)−石英脈でN10度E・80度SEとN80度E・80度SEの走向・傾斜をもつ2本の鉱脈が十字に交叉している。前者は脈幅5〜10センチメートルで、四面銅鉱と石英を主体とし少量の黄銅鉱を伴っている。延長は50メートルが確認されている。後者の鉱脈は、ときに脈幅が10数センチメートルに膨張しているところもあるが、一般に数センチメートルの細脈である。このものも四面銅鉱と石英を主体としているが、晶洞の発達もよくみられる。前者は、たまたま銀品位の高い部分があり2,000グラム/トンの品位を示したところもあったという。
 
日浦鉱山(沢ほか、1961)
 この鉱山は、日浦川中流の一支流にある。現在は休山中であるが、過去の生産実績として、昭和18年(1943年)に銅鉱(Cu1.0%)を500トン、昭和24〜25年(1943〜1950年)に硫化鉄鉱(S23.3〜27.9%)を1,395トン採掘している。
 鉱床は、デイサイトあるいは玄武岩質岩類中に胚胎(はいたい)する黄鉄鉱−黄銅鉱−方鉛鉱−閃亜鉛鉱−石英脈で、鉱脈には、NW−SE系のものが4本、NE−SW系のものが1本ある。NW−SE系のものは、N30度〜80度W・60度〜80度SWの走向・傾斜を示し、石英と黄鉄鉱を主体とするもので、ほかの硫化物は極めて少ない。NE−SW系のものは、N60度〜70度E・70度〜75度SEの走向・傾斜を示し、細脈ではあるが、黄銅鉱−閃亜鉛鉱−方鉛鉱などが比較的多い。これらの鉱脈に対して、掘進されている坑道は、1、2、3号の各坑で、このほか着脈していない小規模な探鉱坑道もみられる。
 鉱石鉱物は、主に黄鉄鉱からなり・黄銅鉱・四面銅鉱・閃亜鉛鉱・方鉛鉱が伴われている。
 
砂鉄(藤原・国府谷、1969)
 恵山地方の砂鉄については、古くから知られ江戸末期の安政2年(1855年)に、箱館奉行竹内下野守(保徳)の命によって、諸術調所教授役武田斐三郎(成章)が、古武井の砂鉄を検分している。そして、蘭書によって初めて洋式の溶鉱炉を築造したが、技術が未熟なため、古武井の砂鉄を原料に松炭を燃料とした製鉄は失敗している。当時、箱館奉行が恵山(古武井)に溶鉱炉と反射炉(設計図のみ)の築造を考えた理由の一つとして、安政元年(1854年)、尻岸内川の支流冷水(ひやみず)川上流に鍛治屋(かじや)山カセ松右ヱ門が砂鉄吹立所(タタラ吹き)で銑鉄(せんてつ)の生産を始めていたことが挙げられる(恵山町ふるさと民話の会、1994)。
 ところで幕末日本の近代化とは、採鉱−精練冶金−造機−鋳砲・造船という一貫した技術体系をつくりだすこと、そのための製鉄であった。しかし、洋書(蘭書)を介して極東の日本に入って来た技術は、欧州では過去の遺産となろうとした木炭高炉であった。そして、反射炉は、本来、鋳砲用青銅に用いられてきた再溶鉱炉であった。蝦夷地古武井で、安政3年(1856年)から同5年(1858年)8月(火入れ1、2回)にかけて製鉄の試みが行われても、上記の技術体系と直接のつがりは持っていない(南部・遠藤、1983)。
 文久3年(1863年)、古武井溶鉱炉は暴風雨で大破した。この「古武井溶鉱炉跡」と「女那川(めながわ)煉瓦製造所跡」は、日本最初の高炉の試みの一つとして、貴重な産業遺跡であることが確認され、昭和42年(1967年)3月、共に北海道指定史跡に指定された。
 第四紀の漂砂鉱床(ひょうさこうしょう)であるいわゆる海岸砂鉄と山砂鉄は、戸井町付近、日浦付近、豊浦・大澗・中浜〜女那川付近・日ノ浜〜古武井付近、椴法華付近など、恵山町内外の海岸沿いや、古武井川下流の台地(高岱(たかだい))などで産出する。これらのうち昭和47年(1972年)まで稼行されたのは古武井川下流の台地(高岱地区)(北海道工業株式会社、古武井鉱山)の山砂鉄である。なお、海岸砂鉄の中浜〜女那川付近(日鉄鉱業株式会社女那川現場)は昭和41年(1966年)、産出高の一番多かった(同)日ノ浜現場は昭和43年(1968年)まで稼行された(産業編 鉱業・砂鉄参照)。
 
尻岸内鉱山女那川現場(日鉄鉱業株式会社)
 尻岸内川川口付近の中浜にあって、昭和31年(1956年)から採掘された。砂丘および海浜砂の大部分を掘りつくし、41年頃(1966年頃)には廃砂(着磁率4%)の再処理を行った。精鉱生産量は、昭和32年〜同、41年までの10年間で19万トン余を生産(札幌通産局調)し、精鉱品位は、Fe57.5〜57.6%、TiO25〜6%であった。
 
尻岸内鉱山古武井現場(日鉄鉱業株式会社)
 古武井川川口南西方の海岸(日ノ浜)にあって、昭和25年頃(1950年頃)から主に砂丘の砂を採掘したが、43年頃(1970年頃)には、女那川現場同様、廃砂(着磁率9%)の再処理が主体になった。精鉱生産量は、昭和26年(1951年)〜同43年(1968年)の年平均約2万3千トン、総生産高41万2千トン(札幌通産局調)を超えており、町内の砂鉄鉱山の内最も多い生産高を上げている。精鉱品位は、Fe56.9〜57.2%、TiO25〜6%であった。 女那川古武井の精鉱は、女那川(寄貝歌)桟橋から船積みされ、釜石および広畑、一部は室蘭の製鉄所に送られた。
 
北工古武井鉱山(北海道工業株式会社)
 この鉱山は、日ノ浜の標高20〜40メートルの平坦な新規段丘に立地している。鉱床は、昭和32年(1957年)から昭和33年(1958年)にわたって東北砂鉄鋼業株式会社がボーリング探鉱を行い、その後、35年(1960年)〜37年(1962年)6月まで同社が操業した。北海道工業株式会社の操業は、昭和39年(1964年)からで、昭和44年(1969年)頃は北海道一の生産規模を持つ砂鉄鉱山になった(写真1.16参照)。

写真1.16 北工古武井鉱山の砂鉄採掘場
A:表層(腐植土・ローム・軽石・火山灰、厚さ4~6m)
B:砂鉄層(着磁率30~34%、厚さ7~10m)

 
 砂鉄鉱床は、図1.27の模式柱状図に示したように、更新世の日の浜層および新規段丘堆積物の中に胚胎(はいたい)しているが、主体は日の浜層で、上位の段丘堆積物中の砂鉄も併せて採掘されている。昭和44年頃(1969年頃)開発の行われた通称第2台地では、延長720メートル、幅400メートルの範囲に賦存が確認された。このほかに南方の空川を隔てた第3台地にも延長1,000メートル幅300メートルの範囲に賦存が予想された。これら段丘堆積物中の砂鉄は、比較的上部に濃集し、ここでは着磁率12〜13%に達するが、全体的にみると2〜3%、ときに5〜6%と低い。この下位の日の浜層中では全体的に濃集し、平均6メートルの厚さで、砂鉄の着磁率は非常に高く30〜45%、ときには50〜60%に達する。上位の段丘堆積物も合わせた採掘対象の「山砂鉄」の平均着磁率27.4%になっている。この砂鉄鉱床は、砂礫や軽石・火山灰の多いのが特徴となっており、日の浜層の砂礫含有率は7〜15%となっている。このため、選鉱の前処理として除礫が問題になった。

図1.27 北工古武井鉱山砂鉄鉱床の模式柱状図(藤原・国府谷,1969)

 精鉱生産量は、札幌通産局調によれば昭和42年(1967年)〜47年(1972年)年平均59,700トン余りの生産を上げ、6年間の総額、約359,000トン、短期間の生産高では尻岸内鉱山古武井現場(日鉄鉱業株式会社)を凌いでいる。精鉱品位は、Fe59.2〜59.3%、TiO28.3〜8.5%であった。精鉱はトラック輸送で、古武井山背泊漁港および函館中央埠頭に運搬され、ここから船で住友金属和歌山製鉄所に送られた。なお、一部は日鉄女那川(寄貝歌)桟橋からも送られた。
 
大昭日の浜鉱山(大昭産業株式会社)
 昭和34年〜昭和35年(1959〜60年)、約20,000トン(精鉱生産量6,400トン)採掘したが、表層が6〜8メートルと厚く、かつ巨礫が多く、また、鉱石が硬いため1日の処理量が少なく、まもなく休山した。砂鉄鉱床は、北工古武井鉱山と同じく、日の浜層中に胚胎されているもので、厚さ4〜6メートル、平均着磁率24〜25%となっている。日の浜鉱山付近には坑道がみられ、坑内では約70センチメートルの厚さをもつ縞状砂鉄が、N45度E5度NWの走向・傾斜でみられる。なお、この砂鉄鉱床は、大部分が採掘ずみで残鉱は30,000トン程度といわれる。
 
石灰石および大理石(服部・堀川、1965)
 尻岸内川中流域に分布する先第三紀の戸井層中には、大小の石灰岩体が介存されている。この内、比較的大きな岩体は、尻岸内川上流約6.5キロメートルの盤ノ沢入り口付近から堤ノ沢入り口付近にかけてと、喜四郎沢下流にみられる。また、小さな石灰岩体は、この周辺に多数みられる。

写真1.17 尻岸内川中流域の大理石(恵山石)採掘場(1996年5月25日撮影)

 尻岸内川中流の石灰岩は、堤ノ沢から中小屋沢にかけては良質のものであるが、それより東方の盤ノ沢にかけては玢岩類のへん入によって、結晶質になり大理石化している(写真1.17参照)。石灰岩の大部分は、走向延長約360メートル、傾斜延長約80メートルが確認され、上限および東側延長はさらに広がる可能性がある。なお、厚さは確認されていないが、周囲の状況から30メートル以上におよぶものと推定されている。鉱量は、概算で484万トン、この石灰岩は一般に黒色・緻密なものであるが、一部結晶質のところもある。品位は、CaO50.62〜53.32%、MgO2.41%、Fe2O3+Al2O30.37〜1.77%、P2O50.032〜0.04%、SiO20.3〜1.37%である。大理石の大部分は、走向延長約320メートル、傾斜延長約80メートルが確認され、上限および西側延長はさらに広がる可能性がある。なお、大理石の厚さは、石灰岩の部分と同じく30メートル以上におよぶものと推定される。鉱量は、概算で210万トン、この大理石は灰色〜灰白色のものもあるが、一般に色調は灰黒色〜黒色で、白色の縞模様のあるものと、縞模様の全く認められない漆黒の緻密なものとがあり、漆黒のものは日本でも珍しいといわれ、装飾用建材として各方面から引き合いがある。品位は、石灰石の部分とほぼ同様で、CaO48.51〜52.93%、SiO20.40〜6.00%である。
 喜四郎沢下流の石灰石岩体も、品質的には尻岸内川中流のものと同じであるが、岩体の規模については、まだ未調査である。
 恵山産の石灰石および大理石の利用については、石灰石ほとんど全ての用途に適するが、結晶質の部分は鉄鉱用および製糖用に不向きで、炭カル肥料か製紙用原料として利用することが適当と考えられている。
 大理石の利用については、昭和39年(1964年)10月から函館大理石工業株式会社が企業化、女那川に工場を建設し「恵山石」の名称で、花瓶・置台・灰皿など工芸品を製作、販売した。生産量は昭和43年頃(1968年頃)で工芸用品750個/月、函館市内のデパートや鉄道弘済会などを通じて販売されていた。このほか、テラゾー(セメントに大理石の砕石を混合しモザイク仕上げした石材で、用途は床・壁・舗装などに用いる)原料としても100トン/月程度の生産も計画された。昭和56年(1981年)12月からは、日本資源産業株式会社が女那川に恵山鉱業所(恵山大理石鉱山)を設け、内装用建築石材の製造および環境石材の加工・販売をしている。内装用建築石材については、スペイン産の黒大理石(通称ネーロマルキーナ)と同質との評価があり、現在、巾木・棚板・タイル等が製造されている。また、環境石材については、環境保護の面と、本来、護岸工、水制工に求められる強度面の両部分を兼ね備えている唯一の石材として、監督官庁の指導のもと着実に採用実績を上げている(以上セィフティ北海道、1995、北海道鉱山保安監督局監修)。また、最近、恵山大理石が、美術家・工芸家達から彫刻・工芸品の素材として注目を浴び、優れた作品も生み出されている。これらの作品が、道の駅「なとわ・えさん」に飾られ、販売もされている。
 
ゼオライト(沸石(ふっせき))(藤原・国府谷、1969)
 古武井川下流および尻岸内川下流に分布する流紋緑色凝灰岩には、ゼオライト(沸石)が含まれている。ゼオライトには、つねにα−クリストバル石が共生しているが、尻岸内川下流のものは、モルデンフッ石を主成分鉱物とし、クリノプチロルフッ石を伴い、古武井川下流のものはクリノプチロルフッ石を主成分とし、モルデンフッ石を伴っている。古武井川下流の道路切割から採取したゼオライト試料のカチオン(塩基(えんき))交換容量(CEC)は95.7メートルe/100グラムである。
 
カオリン粘土(藤原・国府谷、1969)
 5万分の1地質図幅「恵山」の北に隣接する「尾札部」図幅地域の押野鉱山周辺には、硫黄鉱床の変質体としてのカオリン粘土化帯(主成分はカオリナイト−ハロイサイト鉱物)が多く生成されているが、このようなカオリン粘土への変質は、古武井川上流一帯にもよくみられる。しかし、石英・モンモリロナイト・硫化鉄鉱などを伴うことが多く、カオリン粘土だけがまとまった鉱床はまだ見付かっていない。
 なお、恵山火山の火口原にある恵山温泉(旧中村温泉、1959年廃業)付近に、硫化鉄鉱・α−クリストバル石・石英などを伴ったハロサイト質の青色〜灰白色粘土がみられるが、その規模は明らかではない。
 
珪石(けいせき)(藤原・国府谷、1969)
 恵山鉱山の硫黄鉱床に伴う白色の珪質岩で、主に2号鉱床周辺に賦存する。かって、北海道ソーダー株式会社幌別工場に、50トン/月程度試験的に出された。この珪石は、主に石英・α−クリストバル石・鱗珪石(りんけいせき)などからなるが、フィルム状に明礬(みょうばん)石や硬石膏(こうせっこう)の共生していることもあり、硫黄の付着していることもある。品質は、全SiO295.0%、可溶性SiO285〜90%である。
 
珪藻土(けいそうど)(河嶋、1943)
 珪藻土として古くから知られているのは、古武井山背泊漁港裏の崖に露出しているものであるが、このほか、戸井付近、椴法華村矢尻川支流の冷水沢下流にも知られている。冷水沢下流の珪藻土は、幾分、砂質でかっては磨き粉として利用されたことがあるという。
 山背泊漁港裏の崖に露出する珪藻土は、明治新政府の外人鉱山技師パンペリーによって、文久年間(1861〜63年)に発見され、その後明治22年(1889年)に新保小虎(じんぽことら)も報告を行っている。この珪藻土は、古武井層上部の泥質凝灰岩中にあるもので、下部は凝灰岩をへて灰色硬質頁岩になっている。走向はほぼN50度Wを示し、北東に40度の傾斜をなしている。露出部分は、延長50メートル、厚さ5〜6メートル以上である。色調は淡褐色〜淡灰色を帯びている部分もあるが、一般に黄白色で極めて軟質のものである。珪藻土は乾燥脱水すると灰白色になる。珪藻の種類は、Cocconeis,Coscinodiscus, Epithemia, Eunotia, Stephanodiscus, Synedraなどでこのほか海綿の針状骨骼をふくんでいる。
 この珪藻土の分析結果は、つぎのとおりである(河嶋千尋)。
 SiO2(82.70%) Al2O3(1.89%) Fe2O3(2.20%) CaO(8.86%) MgO(0.00) Na2O(0.16%) K2O(tr.) Ig.loss(12.67%)
 
石材(藤原・国府谷、1969)
 日浦岬からサンタロナカセ岬にかけての海岸には、柱状節理の発達した粗粒玄武岩(そりゅうげんぶがん)やプロピライト質デイサイト(石英安山岩)が露出し、数か所で採石が行われていた(写真1.18)。硬硬・緻密な良質のものが量的に豊富で、道路用砕石・築港工事・建築工事などに利用された。このほか、尻岸内川下流の荒砥(あらと)付近の先第三紀の圧砕砂岩や、尻岸内川および古武井川下流の川砂利も道路用骨材として採取されている。また、尻岸内川支流の唐川上流に分布する古武井層の砂岩と砂質頁岩が、砥石(といし)として利用されたことがあるといわれる。

写真1.18 日浦岬付近の採石場、岩石は柱状節理の発達した粗粒玄武岩(1996年5月25日撮影)

 
温泉(藤原・国府谷、1969、北海道地下資源調査所、1976、勝井ほか、1983)
 恵山周辺には、現在の噴気活動に直接関係する恵山温泉および間接的に関係すると思われる御崎(石田)温泉・椴法華村水無温泉その他がある。前者は恵山火山山頂部出湧出する硫黄泉でpHが極めて低く、後者は山麓から噴出する重炭酸土類泉〜食塩泉で、pHが高い。これら温泉については、太秦ほか(1959)、斎藤(1962)、藤木ほか(1965)、早川ほか(1968)の地球化学的、地球物理的研究があり、最近の総合的な調査報告として(藤原・国府谷、1969)、北海道地下資源調査所(1976)、勝井ほか(1983)がある。
 以下、これらの報告によって、恵山周辺の温泉の湧出と利用状況を述べる。なお、主な温泉の化学分析値は表1.1に示してある。
 
恵山温泉
 恵山溶岩円頂丘の西側の爆裂火口北西端の「火口原」にあり、岩屑流堆積物の中から湧出している。弘化2年(1845年)の記録(松浦武四郎蝦夷日誌)にあり、昭和33年(1958年)までは温泉旅館として営業していたが、同年8月23日台風22号により建物の一部が破壊され、翌34年の台風15号では建物が完全に吹き飛ばされ廃業する。露天風呂はしばらく姿をとどめていたが現在は消滅し、薬師堂に当時の面影を残すのみとなっている。この温泉は現在、南山腹の原田温泉(現恵山温泉)や恵山高原ホテルに引湯している(写真1.19)。泉温は52℃(引湯して42.6℃)、泉質は硫黄泉でpH低く強酸性を呈する。爆裂火口の火山ガスはCO2、H2S、HCl、SO2などを多量に含んでいる(Iwaski et al.、1962、気象庁函館海洋気象台・同森測候所、1996、北海道地下資源調査所、1976)。恵山温泉の泉質はその影響を受け、SO4にとみ、pH1.7の硫酸酸性となっている(北海道地下資源調査所、1976)。恵山温泉は代表的な地獄型温泉の一つで、泉温は52℃である。

写真1.19 恵山温泉跡(1996年5月25日撮影)


表1.1 温泉の化学分析値(北海道地下資源調査所,1976)(1)


表1.1 温泉の化学分析値(北海道地下資源調査所,1976)(2)
F:天然の湧出量;AF:エアーリフトによる揚湯量;*:井戸もとあるいは湧出源で測定し得なかったもの

 
 恵山町は、新しい温泉をうる目的で昭和46年(1971年)に恵山南麓柏野台地において、450メートル深のボーリングを実施した。このボーリングによる湯脈は、250メートル以深の凝灰質安山岩と溶結凝灰岩の中に発達している。エアリフトによる揚湯試験によれば、静水位−36メートル、動水位−56メートル、250リットル/min、泉温53.8℃で、泉質は恵山温泉と異なり強食塩である(北海道地下資源調査所、1976)。
 最近になって、恵山町は、恵山の温泉熱を利用したツツジ栽培を、障害者の社会復帰事業の一環として準備を進めている。この、ツツジ栽培に当てられるのは、平成7年(1995年)12月に掘削された恵山町町民センターの泉源で、エゾヤマツツジ、シャクナゲなどの栽培用ハウスは、この近くに建設する計画(30メートル×6メートル、h約3メートル)である。ハウス地下には、温泉により温められた真水がパイプを循環しハウス全体を温める。町企画観光課の計画案では、同町の精神障害者やその家族で構成される回復者クラブ「梅の会」(約25人)のメンバーが中心となり栽培管理にあたる。指導を担当する家庭園芸士の野呂健氏は、温泉熱栽培でツツジの成長が促進され、温度調節によって開花時期をずらすこともできる、といっている。恵山町は将来的に、栽培したツツジなどを販売する計画で、町内では「梅の会」だけでなく、地域の老人クラブも栽培の準備を進めており、温泉を福祉産業に積極的に利用する自治体として全道的にも注目されている。
 
御崎(みさき)温泉(石田温泉)
 恵山火山南東麓の御崎にある温泉は、海岸の数か所と海面より25メートルほど高い位置(石田温泉)から湧出している。御崎漁港付近には、かって湯治旅館(磯谷温泉)があった。温泉は、絵紙山層から湧出しており、湧出口付近には石灰華の沈殿が見られる。泉温は41〜44℃、pH7.4、泉質は重炭酸土類泉出、Ca、Na、HCO3、Cl、SO4などに富む(表1.2)。この温泉は、本質的には、CaSO4タイプで、地表水が地下水となって恵山火山の溶岩内部を流下して、熱の供給を受けたものと考えられている(早川ほか、1968)。
 御崎温泉は自然湧出が主体で、天然湧出をそのまま利用しているのが露天風呂「浜の湯」(写真1.20)であり、石田温泉(平成12年10月の豪雨により柏野に移転)は、建物裏手の天然湧出箇所に集湯槽を設置している。前者の露天風呂は、古くから、メクサレにきく湯(眼病に効く温泉)との言い伝えがある。現在でも地元の人々に「めくされ湯」と呼ばれ、親しまれている。

写真1.20 浜の湯(メクサレ湯)

 
椴法華村水無温泉(とどほっけむらみずなしおんせん)
 恵山火山の北東麓の海岸にあって、海浜の岩塊の間から湧出している。藤木ほか(1965)によれば、温泉は割れ目の多い安山岩を帯水槽(たいすいそう)とする被圧層(ひあつそう)状泉出、温泉源は恵山溶岩円頂丘の方向に想定されている。これら天然湧出の総量は100リットル/minで、最高温度は52.3℃と観測されている。椴法華村では昭和37年(1962年)にボーリングを行い、3本のうち1号泉を旧国民宿舎恵山荘などで利用していた。これらの温泉は泉温は39.5〜58.9℃、pH7.4〜8.4である。
 
その他の温泉
 恵山火山の北および北東斜面には、少量の温泉の湧出が認められている(藤原・国府谷、1969)。これらは恵山“火口原”から元村にぬける登山道および椴法華市街へぬける登山道沿いにある。これらの温泉は、恵山火山の噴気活動に関係すると考えられる硫黄泉で泉温は約30℃である。