長禄元年(一四五七)のコシャマインの乱の頃か、或はそれ以前に、戸井に和人の豪族が館を築いて居住していたことは、村人の伝承した伝説、文政四年(一八二一)大量の古銭、その他の財宝が出土した記録、及び館の存在したという伝説の場所附近から古い型式の板碑が二基発見されたことなどから信じていいようだ。
館を守っていた和人が、蝦夷の襲撃を受けて全滅し、それ以来和人無住の年月が長く続いたが、和人渡来の歴史は、松前、江差地方と共に古い。
明治時代に書かれたと思われる戸井の沿革史に「文治五年(一一八九)源義経を討った藤原泰衡が、頼朝に敗れ、比内で河田次郎のために殺され、その残党が戸井に住んだのが、戸井への和人居住の始まりだ」とあるのは根拠のない妄説である。
下海岸のことが日本の歴史に登場した始まりは、文治五年より百年以上後の永仁四年(一二九六)日蓮上人の高弟日持上人が石崎に滞留したという伝説で、その次が永仁四年より三十数年後の元弘四年(一三三四)に書かれた『庭訓往来』に、釜谷附近の昆布が「宇賀昆布」の名で記録されていることである。
和人がコシャマインの乱以前に道南へ来たのは、戦乱に敗れた者、盗賊、海賊の首領で本土から放遂された者などであったが、それらの者は蝦夷の襲撃に備えて、館を築いていた。その頃戸井の館主は岡部季澄で、蝦夷の襲撃を受けて滅びたと伝えられている。それ以来、永正九年(一五一二)にも蝦夷の反乱があり、天文十九年(一五五〇)まで約百年間、蝦夷の反乱が繰り返され、箱館から東の下海岸は和人無住の地であった。したがって戸井の住民の先祖は、文治五年に渡島した和人であるということは誤である。
戸井に和人が定住するようになったのは、慶長、寛永の頃からで、区域は小安、汐首地区で、この時はまだ汐首岬を境にして、和人地と蝦夷地とに厳重に区分されていて、汐首岬以東には和人が定住していなかったのである。
鎌歌、原木、戸井に和人が定住したのは、和人と蝦夷の居住制限のなくなった享保年間(一七一六―一七三五)から宝暦年間(一七五一―一七六三)で、小安、釜谷、汐首、瀬田来に村落が形成されてから百年乃至二百年後である。
このようにして蝦夷時代から松前藩が蝦夷地を支配するようになった初期の頃も、戸井は汐首岬を境界にして、行政的にも地勢的にも東西に区分されていた。
明治十一年(一八七八)汐首岬によって区分されていた小安村と戸井村を合わせて戸長役場が置かれたことが二村合併の契機となり、明治三十五年(一九〇二)に二級町村制が施行された時に、小安村と戸井村が合併して戸井村になって現在に及んでいるのである。歴史的にも地理的にも、又松前時代が始ってからも、長い年月和人地と蝦夷地に区分されていた地域が、合併して一町村になったという例は北海道では戸井だけである。
又戸井をも含めた下海岸という地域は、松前時代に福山に行政府があった時代はもちろん、箱館に行政府が移された時代、更に明治以降現代まで函館が行政、文化の中心地となっても、僻地として文化的に取残されて来たのである。
然し文化の本流から外れな僻村であっても、時代々々の政治権力の移動や北海道の行政機構の変遷、全国的又は全道的な事件や社会情勢の変化等の影響を徐々に或は急速に受けたことは、戸井町の沿革や事蹟を調査する過程で如実に感じられる。
このことから戸井町の沿革や事蹟を列挙するだけでは管見的になることを考え、戸井町の沿革や事蹟に直接的に或は間接的に影響を与えたと思われるものを背景として戸井を見るべきだと考え、全道的、全国的な行政、経済、文化、事件等についても精選してこの年表の事蹟として挙げた。
例えば日清、日露の両戦役、満州事変、支那事変から太平洋戦争、及び戦後の大変革等は、僻村戸井にも、急激に、直接的にしかも甚大な影響を与えたので、これらの事蹟についてはやや詳細に記述した。
又草創の頃から下海岸という名のもとに、函館、銭亀沢、尻岸内、椴法華は共通の地域環境から相互に関連をもち、影響し合って発達して来た歴史的な経過からこれらの村々の主な事蹟についても記述した。
更に津軽海峡を越えて、船での往来が頻繁になるにつれて、昔南部、津軽と袮された青森県からの影響を各分野において受けている事実に基いて、南部や津軽の事蹟をも若干加えた。
時代区分については、一般史家の例に倣(なら)って次のようにした。
一、蝦夷時代〔天正十七年(一五八九)以前〕
二、松前時代前期〔天正十八年(一五九〇)から、寛政十年(一七九八)までの二〇九年間〕
三、幕領時代前期〔寛政十一年(一七九九)から、文政三年(一八二〇)までの二二年間〕
四、松前時代後期〔文政四年(一八二一)から、嘉永六年(一八五三)までの三三年間〕
五、幕領時代後期〔安政元年(一八五四)から、慶応三年(一八六七)までの一四年間〕
明治以前は松前藩の覇権が確立してから寛政十年までの二〇九年間でこの時代は、松前藩の意のままの統治が行われ、政治は保守的でマンネリ化し、進歩も発展もなかった時代であるが、寛政十一年幕府が直轄統治した時代から幕末まで僅か七〇年間は、一度松前藩に統治権が復したとはいいながら、松前藩は看板に過ぎず、すべてに幕府の権力が及び、国際情勢をもからめ、激動の時代であった。
戸井を含めた下海岸の漁村は、松前時代前期には場所請負制度という悪制のため、松前藩や場所請負人のために搾取され、幕領時代以降は本州方面の資本家、豪商のために搾取され、明治、大正時代になっても函館方面の資本家や商人の仕込制度にしばられ、貧苦に泣いた生活が続いたのである。
戸井町史年表は断片的な事蹟の累列であるが、このような時代区分と政権の移動、社会情勢の背景を頭に入れて読み取っていただきたい。
年表の上限を文治五年(一一八九)にしたということは、戸井に和人が住みついた草創期を文治五年としたのではなく、道南への和人渡来がこの頃から始ったという推定と戸井に和人の館が存在したということ、もう一つは、室町時代のものと推定される板碑が発見されたことからである。
慶応三年(一八六七)三百年間続いた徳川幕府が政権の座から引き下され、天皇親政の世となり、同年九月八日明治と改元になり、蝦夷地には開拓使がおかれ、明治二年九月二十六日蝦夷地を北海道と改称した。
当時の北海道は面積が広大な上に人口が少なく、未開寒冷な地であったため、他府県と若干異なる行政機構を試み、北海道庁時代まで三度行政機構が変った。
六、開拓使時代〔明治元年(一八六七)から明治十四年(一八八一)までの十四年間。〕
七、三県時代〔明治十五年(一八八二)から明治十八年(一八八五)までの僅か三年間。他府県並に北海道を札幌、函館、根室の三県に区分し、県の長を県令と称した。〕
八、北海道庁時代〔明治十九年(一八八六)から太平洋戦争の終結した昭和二十年(一九四五)までの六十年間で、道庁の長を開拓使時代と同様長官と称した。〕
九、北海道時代〔昭和二十一年(一九四六)以降現在までで、昭和二十二年(一九四七)四月十一日に公布された地方自治法により、公選によって知事や市町村長が選挙されるようになった。
戸井町史の内容については、その沿革、事蹟を以上の時代区分にしたがって述べることは煩雑(はんざつ)になることを考え、項目別に明確な時代区分によらずに記述したが、この年表は、前述の九時代に区分して事蹟や事件を列記し、各時代の概観を時代区分毎に掲げた。
この年表は昭和四十三年十月に刊行した『戸井町史年表(稿)』の誤を訂正し、その後調査した事蹟を加えたものである。又年表(稿)の頭初に述せた石器時代の項についてはこの年表から削除し、若干書き替えて本文の中に載せた。
又年表(稿)は、石崎へ日持上人が滞留したという伝説から、永仁四年(一二九六)を上限としたが、戸井に和人の館があったということが、『松風夷談』に記録された戸井の事蹟、古書にオカベトノマ、オカベマ、オカベトマリなどの地名が館の存在した附近の入江に名づけられていたということ、更に室町時代に建立されたものと推定される二基の板碑の新発見等から、戸井に和人の豪族の館があったことは確からしいという判断から、道南に和人が渡来したと思われる時代まで遡って記述した。
この年表を編纂するために、戸井町内の神社、寺院、官公庁、旧家等に伝わる記録、資料を可能な限り蒐集し、戸井の事蹟を記録している文献、資料を渉猟し、これらの事蹟を取捨選択して単表に書き上げた。
一応書き上げては見たものの、文献渉猟の狭さや浅さから重要な事項を落していることも考えられるし、「煩簡よろしきを得ない」とか「不備、不十分」との誹(そしり)を受けるかも知れないが、本務の余暇の六年間の労作としてはこれが限度のような気がする。
歴史研究家の叱正を期待する。
昭和四十七年十一月
野 呂 進
亀田郡七飯町 函館山を望む丘にて