箱館在の志海苔、小安辺は古くから昆布採り場所として和人の来住が多かった。はじめは亀田村として広く呼ばれていたが、港のよい箱館が栄えてくると東在と呼ばれた小安以東のトイ・シリキシナイ・オサツベ・カヤベ(サワラ)オトシベ・ノダヲイ辺への和人の来住も多くなっていった。
松前藩の財政をささえた独特の場所請負制度が成立していく。その成立は、享保年間(一七一六)から元文年間(一七三六)とみられている。
元文四年(一七三九)頃の蝦夷地各場所の状況を記した「蝦夷商賈聞書」は、六箇場所を知るためにも貴重な文献である。
市立函館図書館所蔵の蝦夷商賈聞書から六箇場所の部分を次に掲げる。
蝦夷商賈聞書
一 松前城下ゟ東北之蝦夷地運上所 出物之品 人間境ゟ通江地迄書記申候
是ゟカヤベト申迄 昆布出所
一 トヱト申地 佐藤加茂左衛門殿御預リ
出物 赤昆布 ウンカ昆布ト申大名物
黒昆布 シノリ同前(所) フノリ 秋ノ猟ハ鮫 鰤
箱館ト申所之人間共運上ニ申請支配仕
運上金之義 年々不同 小船ニ而箱館江通江(候)
一 シリキシナイト申地 木村与右衛門殿御預リ
出物類右同断也
運上不同
箱館者共支配仕候 是も小船ニ而度々通江(候)
一 イキシナイ并ニコブイ 此両所御家老蠣崎内蔵亟殿御預リ
出物類右同断
箱館者共運上ニ申請支配
運上金不同
一トトホッケゟヲサ(ツ)べ迄 十里ハカリ 此間蝦夷村沢山ニ有リ
昆布大出所也 新井田 兵 内 殿 御預リ
運上金壱ヶ年ニ 四拾両宛
箱館者共運上ニ申請 二百石ハカリ之小船ニ而度々箱館江通江申候
一 臼尻ゟマツヤト申所迄 志摩守様江運上金揚ル
出物 昆布ハカリ 小船ニ而村々ゟ 箱館江昆布積通江(候)
一 カヤベト申地 北 見 与五衛門 殿 御預リ
鯡 数子 昆布 夏ノ出物 十月之初ゟ 膃肭臍取申候
運上金 弐拾両 壱ヶ年ニ指上ケ 亀田村ト申所ノ者共年々商買仕候
一 ヲトシ部 モナシ部 野田ヲイ此三ヶ所 新井田権之助殿御預リ
出物 鯡 数子 昆布 夏ノ出物 冬ハヲツ(ト)セイ 沖ゟ寄昆布ヒラヱ 囲昆布ト申
春 大坂船共 箱館江下リ 右昆布積申候
此カヤベヨリヲシヤマ(ン)ベト申所迄 十月ハ皆々ヲットセイ取商 貫目形壱〆三四百目迄 松前公儀江御取揚ケ罷成 其外大キ成ハ皆御預リ方之分也
右之地 秋ハ生鮭モ少々上ル 冬馬足之立間ハ馬ニ而戸切地(ヘキリチ)ト申人間地江内浦越ト申所ゟ出ス
運上金 権之助殿江上納
夏(ナツ)之内二百石斗ナル舟ニ而三度通 運上金不同
一 ユラブト申地 青山新五左衛門殿御預リ 右領分ヲシャマ(ン)べ迄
出物類右同断
運上三ヶ年百五拾両 新五左衛門殿江納ル
此ヲシャマ(ン)ベト申所ゟ西海ノスツツト申所江越ル道アリ
この聞書は蝦夷地の場所の記載なので、小安村はすでに和人地とみなされていて、これには記されていない。また、六箇場所の場所を「是ゟカヤベト申迄昆布出所」とあり、六箇場所即昆布場所として和人の入稼ぎについて記している。
トヱ(戸井)には「箱館ト申所之人間共」「小船ニ而箱館江通候」とある。
シリキシナイ(尻岸内)は「箱館者共支配」「是モ小船ニ而度々通候」、コブイ(古武井)も同断である。
トトホッケ(椴法華)よりヲサツベ(尾札部)までは十里と記されていて、この間に蝦夷村沢山にあり昆布大いに出る所であると特筆されている。
「箱館者共運上ニ申請、二百石ハカリ(許)之小船ニ而度々箱館江通」とある。
つぎの臼尻よりマツヤ(松屋)までも「出物昆布ハカリ」「小船ニ而村々より箱館江昆布積候」と記している。
すべて箱館の者共いわゆる箱館在の百姓達が小船で昆布採り、昆布積みに通ってきたとしている。
尾札部の所にだけ二百石ばかりの小船で箱館へ通うとしている。他の場所に記している小船も二百石前後だったのか、尾札部が特に小船とはいえ二百石積みの船だったのかは記載からは解らない。
臼尻より松屋とあるのは、当時すでに臼尻場所が独立してきていたのかもしれない。尾札部は新井田家の知行であったが、臼尻は志摩守様、いわゆる藩主の直領であったのである。マツヤは松屋岬のことで、江戸末期までは鹿部村と砂原村の境であった。
運上に申し請けとは、すでに場所請負いが成立していたものとみられ、箱館の者共支配とあるのも、箱館の商人共が昆布の運上を支配していたことと読みとれる。