戦国期以来、鷹献上は、各戦国大名間のみならず各大名が中央の政権とコンタクトをとるための、重要な媒介行為であったことはすでに明らかにされてきたところである(長谷川成一『近世国家と東北大名』一九九八年 吉川弘文館刊、同編『弘前の文化財 津軽藩初期文書集成』一九八八年 弘前市教育委員会刊 以後、津軽氏の鷹献上に関しては、特に断らない限りは基本的に両書に基づいている)。それに加えて、戦国武将たちも織田信長をはじめ、武技の一種として鷹狩りを特に好んだようで、なかでも秀吉の鷹好きは有名であった。徳川家康の家臣松平家忠はその日記に、「関白さま御鷹すきにならせられ候て、此方より御たかまいり候」(「家忠日記」天正十六年三月晦日条)と記録しており、徳川氏も秀吉の鷹好きにこと寄せて、豊臣政権への友好の証(あかし)として関白秀吉に対し鷹を献上した。近世に入ってからも、鷹献上の行為は、大名から将軍へ、また大名同士でも盛んに行われ、全幕藩領主を巻き込む形での鷹にかかわる儀礼の確立に伴って、大名領主による鷹の需要は飛躍的に増した。
また放鷹(ほうよう)は、鷹献上とともに武家社会における伝統的な慣習であったが、幕藩体制成立期における放鷹制度の体制的な確立に伴い、上は将軍から下は陪臣に至るまで放鷹は盛んであった。
当時における鷹の最大の供給地としては、松前蝦夷地と奥羽地方が供給地全体の七割近くを占め、対馬を経由した朝鮮鷹の輸入を除けば、国内ではこれらの地域が鷹の最大の供給元であった。なかでも松前は、奥羽地方が後に各大名領での鷹の自給に汲々としていたのに対し、後背地の蝦夷地に広大な鷹の捕獲地を持ち、鷹の供給には絶好の土地柄であった。