鷹巣の保護については、豊臣政権は既に天正十四(一五八六)・十五年に、いわゆる九州平定と、九州支配の過程にあって、日向(ひゅうが)鷹巣奉行を設置することによって実施した経緯があった。秀吉は、当時九州地方において名鷹の誉れの高かった日向鷹の鷹巣独占を企図し、日向一国の鷹の独占とその献上をさせようと、島津氏を日向鷹巣奉行に任命した。豊臣政権による九州支配の確立、それは取りも直さず九州の五畿内同前体制の成立を意味するものであったが、加えて九州における名鷹の鷹巣の統一政権による独占の過程でもあった(芥川龍男「戦国武将と鷹」『日本中世の政治と文化』一九八〇年 吉川弘文館刊)。
さて天正十九年(一五九一)十二月十日と推定される豊臣秀吉朱印状(資料近世1No.四二)は、津軽為信の領地において鷹の商売を禁止し、鷹巣の保護を命じたものである。また、詳細に関しては羽柴会津少将が述べるであろう、とある。羽柴会津少将とは蒲生氏郷(がもううじさと)を指す。氏郷は、奥羽地方の大名たちに関東・奥惣無事令の執行者として臨んでいたことを想起すれば、太閤鷹の保護と献上は、同人の責務の一つであったのかもしれない。
そもそも豊臣政権は御鷹と私鷹を区別しており、御鷹は秀吉の鷹であって私鷹は各大名領主が使用するものであった(『島津家文書』など、曽根勇二「豊臣政権の御鷹場」『白山史学』二二)。このように豊臣政権が津軽地方の鷹保護を為信に厳命したのは、津軽地方がただ単純に鷹の産地だという理由からなのではない。天正十九年に鷹献上を命じた、秀吉朱印状(資料近世1No.四一)にみえる、御鷹=太閤鷹として位置づけられたからであった。秀吉をはじめとして同政権内の有力者に珍重された津軽地方における鷹は、日向鷹と同様、格別の位置づけを与えられたのである。したがって津軽の「御鷹」は、同領内で手厚く保護され、その上で献上道中を組んで日本海沿岸の大名領を経由して上方へ運ばれ、豊臣秀吉に献上されねばならなかった。九州と同様、奥羽日の本仕置によって、豊臣政権による奥羽地方の支配統制の確立と、津軽地方における名鷹の独占とは軌を一にするものであった。なお江戸幕府は、豊臣政権が各大名領主に巣鷹保護を命じたのとは相違して、寛永三年(一六二六)に巣鷹の制を制定して、五人組に巣鷹の保護をさせる体制を作った(「東武実録」)。