伏見指月城の普請

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文禄元年に普請が始まった伏見城は、伏見指月(しづき)の地に造営されたため伏見指月城と呼ばれる。普請当初は隠居所にふさわしく小規模のものであり、また当時朝鮮出兵も重なって、その造営はあまり進んではいなかった。しかし、翌文禄二年八月三日、淀(よど)殿との間に第二子拾(ひろい)(後の秀頼(ひでより))が誕生したことによって事態は急変した。秀吉は、政権を秀次から実子秀頼に譲りたいと考えるようになり、秀頼に与えるための城として伏見城を考え始めたのである。伏見城は、これ以後関白秀次の居城である聚楽第の規模をはるかに上回る城として規模が拡大されていった。
 この間、秀吉と秀次との間の溝は埋めがたいほどに深まり、ついに文禄四年七月三日、秀次は聚楽第において、秀吉の奉行石田三成(いしだみつなり)・増田長盛(ましたながもり)らから謀反(むほん)の疑いについて詰問を受けたうえ、八日に関白職を剥奪され、野山に追われた。その後、十五日、秀次は野山において切腹して果て、関白秀次の居城聚楽第はその年の八月中にあとかたもなく破壊され、も埋められその姿を抹消された。秀次が石田三成らから謀反の嫌疑をかけられたのは、豊臣政権内の分権派である徳川家康前田利家をはじめ東国の大名たちと人的な関係が深かったことや、秀吉が関白である秀次との間で分化し始めた権力を再び自らの手に掌握するためでもあった(朝尾直弘『大系日本の歴史 天下一統』一九七七年 小学館刊)。
 この文禄四年の秀次事件から約一年後の慶長元年閏七月十二日深夜から十三日にかけて、近畿地方では大地震が起こり、伏見指月城は倒壊してしまった。しかし、秀吉は、この倒壊直後の閏七月十五日、指月から北東約一キロメートルほどの所にある木幡山(こはたやま)に早くも築城を開始した。これが木幡山の山上を本丸とする新しい伏見城、すなわち伏見木幡山城である(小和田哲男『城と秀吉』一九九六年 角川書店刊)。秀吉は、これより半年後の慶長二年(一五九七)五月五日には「伏見御城殿守ノ丸」へ入っているが、この伏見木幡山城は京都大坂のほぼ中間点にあたり、また、宇治川水運の要(かなめ)でもあった。この要衝を押さえた伏見木幡山城が、以後、江戸初期まで政治の中心となっていく。

図27.伏見城