福島正則は尾張の住人福島市兵衛正信の長男で、母は
豊臣秀吉の伯母木下氏と伝えられている。永禄四年(一五六一)の生まれで、幼時より秀吉に仕え、市松と称した。
加藤清正・
加藤嘉明・
片桐且元らの「賤ヶ嶽の七本槍」と称される秀吉
近侍の家来よりも一段上の、別格扱いされる存在であった。文禄元年(一五九二)の
文禄の役には
朝鮮に渡海して、竹島で
代官を務め、
兵粮輸送などにも携わっている。同四年(一五九五)には尾張清州(きよす)城主となり二四万石を領した。慶長五年(一六〇〇)の
関ヶ原の戦いでは、秀吉恩顧の大名であるにもかかわらず、家康に属し
石田三成攻撃を主張し、抜群の功績を上げた。そのため、この年十一月安芸・備後二ヵ国で四九万八二二三石の領地を与えられ、広島城主となった。慶長十九年(一六一四)の
大坂冬の陣では、
江戸の
留守居を務めたが、これは家康が正則を警戒したためといわれている。元和元年(一六一五)の夏の陣では、継嗣の三男忠勝を出陣させたが、戦闘には間に合わなかった。同三年(一六一七)
参議に任ぜられ、従四位下に叙せられた(『国史大辞典 第一二巻』一九九一年 吉川弘文館刊)。
図63.福島正則画像
しかし、元和五年(一六一九)六月二日、先に広島城を無届けで修築したことをとがめられ、
本丸その外ことごとく
破却すべきことを命じられた。しかし、
石垣を少し壊しただけでそのままにしておいたことを責められ、安芸・備後両国を没収され、
陸奥国津軽への
転封(てんぽう)を命じられたのである(資料
近世1No.三六五)。正則の
改易は豊臣恩顧の
大名取り潰し政策の始まりであるが、内容をみると
明らかに
武家諸法度違反に問われたものである。本来であれば、領地を没収されてそれで終わりになるところ、家康に仕えたということもあって、
津軽へ
国替ということになったのである。
図64.戦災で消失する前の広島城