慶長八年(一六〇三)、江戸幕府が成立した後、海運を通じた北奥地方と上方との経済的関係は、寛文年間(一六六一~七三)、上方に至る西廻り航路が成立するまでは、主として北陸地方の敦賀(つるが)や小浜(おばま)の廻船商人を通して行われていた。近世初期の段階では、敦賀の廻船商人で徳川家康との関係が深かった田中清六(せいろく)正長らが新たに日本海海運に参入し、家康から北国各地の諸港への入津(にゅうしん)に当たって諸役免除の特権を与えられた。それに基づいて、二代目の田中九兵衛も津軽へ進出し、深浦・鰺ヶ沢・十三の各湊へ入津している(和泉清司「近世における津軽藩の日本海交易」年報『市史ひろさき』二)。
また、近世前期までの津軽と上方との交易品としては、津軽領から米や大豆等の穀類と材木・海産物が、上方からは、日用雑貨・茶・呉服・手工業品等が主な移入品であった。津軽弘前藩では、これら津軽領内の物資交易のため、従来の十三湊のほか近世初期に青森・鰺ヶ沢・深浦等の湊も成立させ、各々に町奉行や沖目付を置いて町政と交易を管轄させた。