津軽弘前・盛岡・秋田の三藩は、松前へ藩士を派遣して戦況等に関する情報を入手する一方、それぞれの城下へ公式・非公式に藩士等を派遣することによって、他の二藩の動静を調査していた。津軽弘前藩では寛文九年(一六六九)七月十五日付で江戸在府の家老北村宗好から国元の家老に対して、青森の町人を密かに松前に派遣すること、藩御用達の松前町人工藤忠兵衛に状況を報告させること、小身の侍一人を松前に派遣し情報を国元へ伝えさせること、そして盛岡・秋田両藩の対応をうかがうために両藩への使者の派遣すること、これらを指示した。さらに、足軽目付・小知行組頭のうち、一月に二、三度、二人ずつ松前に派遣するように、また青森・鰺ヶ沢の両浜と碇ヶ関の者は松前に関する風聞を聞きしだい城下へ注進するようにとの指示が出されている。このように諸藩が互いに探り合おうとしていたのは、他藩の陣容、動員体制についてであり、加勢を命じられた際他藩に劣らない陣容であること、他藩に遅れをとらないことが不可欠であったことを示している。(「津軽一統志」巻十上、「雑書」、「光重年譜」、「大泉紀年」)。
また、この北村の指示以前、七月十二日に松前藩家老蠣崎広林(かきざきひろしげ)・同広隆(ひろたか)方へ阿部喜兵衛を派遣したのを皮切りに、蜂起が一応の終結をみる同年十月末に至るまで、常に藩士を松前に滞在させ、情報の収集に努めている。八月十二日から同二十九日まで、須藤惣右衛門と吉村場左衛門が、津軽弘前藩の加勢出兵を予定して、松前藩の本陣が置かれたクンヌイまでの道筋見分と情報収集のため松前に派遣されている(「津軽一統志」巻十之中)。
両者の任務のうち、道筋の見聞は、蜂起への他藩の介入を恐れる松前藩に阻止された。もう一つの任務である情報収集について、吉村と須藤は藩から事前に指示を受けていた。その内容を整理すると、①松前藩の善悪、②犾の善悪、③藩主松前矩広と幕命によって派遣された松前泰広の動静、④松前の「地下(じげ)」のこと、の四点に集約される。帰国後の両人の報告をまとめると、蜂起の詳しい事情、松前藩の江戸への注進の状況と盛岡・秋田藩の動向、シャクシャイン方の兵力と動静、松前泰広を含めた松前藩側の兵力、松前藩の概況、また藩が加勢出兵するための下準備ともいうべき情報である(浅倉前掲書)。
杉山吉成が、松前に渡海した後は、刻々と戦況が国元に送られ、それらは九月で一三回、十月で一八回、閏十月一四回と合計四五回にのぼる。このような情報は、頻繁な飛脚の往来、あるいは藩士を使者として派遣することによって幕府にもたらされた。また藩では蜂起の終了後も情報を収集して幕府に提供している。