染織技術の導入政策

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貞享検地以降、元禄の大飢饉に至るまでの農政は、藩による年貢収納の強化に主眼が置かれたが、元禄中期以降はそれによって引き起こされる不作―凶作飢饉という農業経営の破綻の危険を避けて、安定した年貢収納を確保する政策へと転換が行われた。そのような中で、養蚕をはじめとする染織技術が導入された(浪川前掲「蚕飼養法記」解題)。

図100.蚕飼養法記

 元禄十二年(一六九九)、藩は絹布織物師の欲賀(星賀とも)庄三郎・富江次郎右衛門を招聘した。この招聘に当たっては野本道玄の申し立てがあったことが知られている。二人は元禄十二年十月三十日に弘前に到着しているが、彼らが携えた御用状には、国元における養蚕織物の検分の際には便宜を図ることが要請されている(「国日記」元禄十二年十月三十日条)。また彼らは、自生・栽培している植物の調査も行っており(同前元禄十二年十月七日・十一月八日条)、織物技術の伝授だけではなく、織物に活用可能な植物の調査の任にも当たったのであろう。
 さらに藩によって「織会所」が設置された。設置の時期はらかではないが、「国日記」元禄十二年十月十五日条によって、この時期会所がすでに国元京都二ヵ所に設置されていたことが知られる。元禄十三年には、紺屋町長内三益薬園屋敷が「織物座」として認められた(同前元禄十三年四月七日条)。
 「国日記」元禄十四年(一七〇一)二月十四日条の家中町在に向けた触達は、これらの技術導入に対する藩の目的を示したものである。元禄の大飢饉以来困窮する家中町在を救済することを主たる目的とし、織物技術の伝習ということにとどまらず、織物染色の原料、生産品を一括して会所に集めるということにあった。つまり他藩に比べても早い時期からの専売制度への志向がみられるのである。
 ただ、専売政策を実現するには、藩が、生産品を商品として全国経済の機の上に乗せることが先決である。そのためには品質の向上も必要となる。元禄十四年二月、欲賀庄三郎・富江次郎右衛門が藩に(まゆ)の品質にかかわる要請を行っている。その中で両人は、一つのに一匹のさなぎが入った「壱疋作り之」で、かつ品質のよい「きんこ繭」に限定することや、の天日干しの際の品質の維持策などを提言している(「国日記」元禄十四年二月二十二日条)。
 野本道玄が著した「蚕飼養法記(こがいようほうき)」も、このような動きの中で生まれた。この書は元禄十五年(一七〇二)の成立で、蚕業に関する書物として最古のものとされ、この時点での蚕業技術を集成した書であるとされている(日本学士院日本科学史刊行会編『治前日本蚕業技術史』一九六〇年 日本学術振興会刊)。「国日記」宝永元年(一七〇四)二月十五日条によれば、この書物は藩の命を受けた道玄京都で板行させたものである。道玄がこの著作を著したのは、藩が専売政策をもくろんだ織物の生産に当たって、その原料・製品の製造を支える技術指導書としての役割を目指したものであり、ここで示された技術は織物師たちの技術をまとめたものといいえるであろう。