一 明暦検地の意義

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 津軽領では、寛永二年(一六二五)から全領の検地が三年をかけて行われたと伝えられる(「記類」)。しかしながら、現在のところ検地帳も発見されておらず、その詳細についてはわからない。
 現在、津軽領に残されている最も古い検地帳は、暦二年(一六五六)のものである。この検地帳は、藩政前期の土地と生産把握の在り方を示す数少ない史料である(以下は、特に断らないかぎり、浪川健治「前期農政の基調と展開」 長谷川成一編『津軽藩の基礎的研究』一九八四年 国書刊行会刊による)。
 この検地は、暦二年の六月下旬から七月中旬にかけて、山形黒石・平内(ひらない)の順で実施されたという。現在伝えられている検地帳は二〇冊であるが、山形(現黒石市)・黒石・平内には三〇ヵ村以上あるので、すべての村の分がそろっているわけではない(七尾美彦「黒石藩暦二年の検地帳をめぐって」『弘前大学国史研究』五六)。
 明暦検地は、暦二年二月に幕府が四代藩主津軽信政跡目相続を認め、その後見として叔父で旗本西丸書院番津軽信英(のぶふさ)へ黒石・平内、そして、上野国勢多郡大舘(おおたち)(現群馬県尾島町)の内に合わせて五〇〇〇石を分知した(資料近世1No.七六七・七六八)ことにより実施されたものである。したがって、検地の実施範は、信英へ分知された地域に限られていた。また、その目的は、分知による分家家臣団創出の基礎づくり、すなわち、新知行地設定にあったと考えられる。そして、これを基にして、翌暦三年(一六五七)に知行替えが行われて、分家家臣団が成立した。