元禄の大飢饉を機に津軽弘前藩の前期農政が転換を迫られ、中期農政へと移っていく状況については、すでに詳しく述べた。それでは、中期農政下における農村の状況はどのようなものだったのであろうか。
宝永六年(一七〇九)年に差し出された藩士桜庭太郎左衛門の建白書(本章第一節四参照)によれば、百姓が藩から拝借した米の返済が強制的に行われ、その結果、上納できずに田畑・家財道具を捨てて逃散(ちょうさん)・逐電(ちくでん)してしまう百姓が多くあったこと、その田畑を村請として百姓たちに割り付けたが、過重負担で収量減に結びついてしまうこと、逃散百姓の夫食拝借分の返済義務づけが逃散百姓の増加に拍車をかけたことなどが取り上げられた。
飢饉の犠牲となって亡くなったり逃散してしまった中下層の農民は、検地帳に耕作者として名前の載らない「高無」百姓層であった。その結果、飢饉の後には高持百姓(検地帳に名の記された百姓。本百姓)の下で田畑を実際に耕す農民数が減少し、農地経営の困難が引き起こされ、その田畑を所有する有力な百姓層が動揺する。
藩では農政の展開に当たり、この状況を技術力で補おうとした。すなわち、不作のダメージが大きく、収穫量や救済面および逃散などの問題を多く抱える外浜(そとがはま)や新田地方といった地域には、確実に収穫の見込める早稲種の作付けを奨励した(「国日記」元禄十六年正月二十二日条)。自らの財源である年貢収入の確保を狙う一方で、農業の担い手である百姓の耕作の安定という側面から農政を展開しようとしたのである(浪川健治「中期農政と農業技術」長谷川成一編『北奥地域史の研究―北からの視点―』一九八八年 名著出版刊)。
また藩は、夫食返済の滞る現状を打破しようとした。城下商人が藩の肩代わりをして夫食を百姓に貸し出す利率を三割とし、その返済は百姓自身から取り立てる形をとらず、藩の蔵に納められた年貢米から受け取るという形がとられることになった(「国日記」元禄十年四月朔日条)。これが夫食の「在貸」制度と呼ばれるものである。これを百姓の立場からみれば、夫食の利率が年貢に加算され、一層の搾取が進むことになる。さらに、元禄十六年(一七〇三)三月には、百姓が夫食を返済できない場合、金主による農地の取り上げを追認した(「要記秘鑑」)。結果としてこれは、農民層の分化をより一層明確なものとした。すなわち、村役人などの上層農民が質地(借金の抵当に入れてそのまま流してしまった土地)によって土地集積を重ねる一方で、耕作する田畑を失い小作人に転落する百姓が増え、農民層の二極分化がさらに進むことになったのである(『五所川原市史』通史編1)。