飢饉の惨状

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飢饉の悲惨な状況を伝える史料は津軽弘前藩をはじめ、八戸藩(『天卯辰梁』)、盛岡藩(『飢歳凌鑑』)と、枚挙にいとまがない。津軽領の史料で代表的な「天明卯辰日記」によると、天三年十月には愛児を殺害して食したなど、早くも人肉食の記事が出てくる。弘前でも非人による死体処理もままならず、十二月には百石町川端など所々の橋の下には死人の薦包(こもづつみ)が積み重なり、それを犬・鳥が食い散らかし、家々の門前にまで首や手足を引きずって来たりするという凄惨な状況であったが、子供ですら見慣れて遊び回っていたという。しかし、まだ弘前藩主の膝下としてわずかながらも米穀が集積され、扶助もあったのに対し、在方はもっと悲惨な状況であったことは想像に難くない。村人内部での殺人・強盗、人肉食が多く語り継がれており、牛馬や人肉を食べて辛くも生き延びた者の話も同書に紹介されている。
 しかし「人ヲ喰し者をハ村々ニ而吟味くびり殺せしと言う」と「藤田権左衛門家記」の記事(資料近世2No.八)が語っているように、共同体内での規制はまだ働いていた。しかし人肉食いにとどまらず、些細な盗みでも殺される私刑が横行し、藩も事実上黙認の状態であった。隣人を殺して食糧を盗み食いした男が吊されて凍え死んだり、女・子供を含む窃盗団が全員首に縄を付けて川に沈められるなど、村の規律を守るためには容赦がなかった。
 年を越した天四年(一七八四)の一月から三月が餓死者のピークで、後潟村・郷沢村・目屋の沢・白沢村(現在の東津軽郡や西目屋の各村)など、村民が死に絶え「潰村」になった村も少なからずあった。また、餓死だけでなく疫病で死ぬ者も多数いた。放置された死体は疫病の媒介になり、かろうじて生き延びた者も、衰弱して抵抗力が弱まっているところに、疫病にかかり命を落とす者が多かった。厳寒期を越えた天四年二月以降の死者は、疫病死が中心であったとみられる。また、治安の悪化からか、領内各地で火事も頻発している。
 在方においての惨状の跡は菅江真澄(すがえますみ)や橘南谿(たちばななんけい)の紀行文も記録している。天五年八月に津軽を旅した真澄は、自身人肉を食べたという乞食の告白を聞いた。南谿は天六年春に訪れたが、飢饉後二年がたっても骸骨が路傍に散乱しており、最初は目を背けていた南谿も、しだいに見慣れてきたと述べる。外浜のある廃屋では、竈(かまど)のあたりに骸骨がごろごろ転がっているのを目撃したという。

図124.弘前市専修寺の飢饉供養塔