文化十年九月二十二日、駒越組(こまごしぐみ)(現弘前市・中津軽郡岩木町・同郡西目屋村・同郡相馬村・西津軽郡鰺ヶ沢町)五代村(ごだいむら)(現中津軽郡岩木町)の十兵衛を頭取として、堀越組(現弘前市)の百姓ら数百人が兼平(かねひら)山(現弘前市)に集合し、弘前城下に強訴(ごうそ)に及ぼうとしたが、同組の手代の説得で未遂に終わった(資料近世2No.五七・六四)。
次いで同年九月二十四日から翌二十五日にかけて、猿賀組(現黒石市・南津軽郡尾上町・同郡田舎館村)の大勢の百姓らが弘前城下に強訴しようとした事件が発生した。九月二十四日、猿賀組の原村(はらむら)(現南津軽郡尾上町)と猿賀村(さるかむら)(現同郡同町)の野原に百姓らが集まり、翌日の行動について相談を行った。「大平家(おおだいらけ)日記」によれば、六、七〇〇人が集まり、不作のため年貢上納ができないことへの対応を相談したという(資料近世2No.五七)。そして翌二十五日、猿賀組新山村(にやまむら)(現南津軽郡尾上町)の吉兵衛を頭取として徒党を組み、城下に向かって直訴を企てている。この強訴は未遂に終わったが、それは、浅瀬石村(あせいしむら)(現黒石市)の郷士鳴海久兵衛らが説得したからとされる。藩は、この猿賀組の強訴の首謀者の逮捕のために、同二十七日、今重助の指揮のもと、唐牛甚右衛門の門弟一一人と足軽一〇人による探索隊を組織している。訴えの内容は、今年は夏ころから天候不順で不熟の村々もあることから、年貢徴収は検見によって行ってほしいというものであった(同前No.六二)。
さらに、翌九月二十六日、今度は大光寺組(現南津軽郡平賀町・同尾上町)・尾崎組(現南津軽郡平賀町)の百姓が大勢徒党を組み、大光寺組の本町村(もとまちむら)(現南津軽郡平賀町)に集合し、柏木町村(現同郡同町)の代官所へ強訴に及ぼうとした。しかし、訴えの内容が藩に伝えられないまま、解散したとされる(同前No.六三)。
このような百姓の徒党は、ついに岩木川の左岸に移り、当藩最大の一揆となって現実化した。いわゆる「民次郎一揆(たみじろういっき)」である。