江戸時代中・後期には、年貢増徴の行き詰まりから諸産物の生産を増強し、その商品化によって財政収入を増やすことを意図した国産奨励策が全国の諸藩で広く行われた。全国的な流通機構が確立した元禄ころから盛んになり、津軽領でも同時期に養蚕(ようさん)や漆の栽培など、上方の技術を用いた殖産政策が導入された。後期における国産奨励策は主に藩政改革の一環として行われ、単なる藩の収入を増やすことを目的とするのみならず、自領に足りない産品を自給自足し金銭の流出を防ぐという、三都市場依存体制からの脱却も意図されていた。
津軽弘前藩の場合、盛岡藩・八戸藩など太平洋岸の諸藩と違い、寒冷地とはいいながら米の生産に適する領地を持ち、新田開発による生産量も比較的多かったから、国産奨励策にはそれほど特徴的なものはない。十九世紀には国産方と呼ばれる役人が郡方あるいは勘定方に配置されていたことは「国日記」等で確認されるが、八戸藩の「御調役所」、米沢藩の「産物会所(さんぶつかいしょ)」のように産物を専門に取り扱う組織は作られなかった。領内の鉱山も尾太(おっぷ)鉱山以外には有力なものはなく、これら諸藩と比較して藩が積極的に専売制を施行し、流通機構に介入して収益をあげようとする強い意図は見当たらない。それでも当藩の場合、上方(かみがた)市場からの自立を目指した宝暦改革の失敗後、郡奉行樋口弥三郎の主導により飢饉の備えを兼ねて、国産奨励策(こくさんしょうれいさく)が実施されたが、天明の飢饉に生かされることなく挫折、その後、享和・文化期になり農村の復興も緒について来たころに、改めて国産奨励策が実施されている。いずれも、飢饉の時からいくらか時間をおいてなされているのが特徴である。