安永律

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幕府の「公事方御定書」は寛保二年(一七四二)に成立したが、その刺激もあって、七代藩主津軽信寧(のぶやす)代の安永二年(一七七三)に本格的な編纂が始まり、同四年八月に藩最初の刑法典として、「安永律」が制定された。これは主として百姓町人を対象としたもので、犯罪種別にして一五項目、条数では九八ヵ条からなる。後の「御刑法牒(ごけいほうちょう)」(寛政律(かんせいりつ)。以下、寛政律と呼称)と比較して、その特色は①最初に総則的規定がなく、冒頭の「主殺之者御仕置」一〇ヵ条から、終わりの「公事(くじ)訴訟強訴(ごうそ)御仕置」二ヵ条まで、個々の犯罪に関する刑罰規定(各則)で通している。②規定が網羅的でなく極めて簡略である。③戦国時代の遺制によって刑罰が重い。④幕府法公事方御定書」の影響がまだ少ない、などが挙げられる。
 次に刑罰の種類は、死刑として(イ)鋸挽(のこびき)、(ロ)、(ハ)獄門、(ニ)斬罪、(ホ)下手人(げしにん)(解死人とも書く)、(へ)死罪、(ト)火罪(火焙(あぶ)り)の七種類がある。そのほかの刑罰には、重鞭刑(じゅうべんけい)追放・鞭刑追放・追放・重追放軽追放中追放非人手下(ひにんてか)・町内払村払・入牢・〆(じめ)・過料(かりょう)(贖(あがない)刑)などがあり(後の刑罰体系参照)、さらに時宜御沙汰(じぎごさた)(適当な時機の自由裁量)などがみえる。
 「安永律」の施行の実態については、「国日記」によって、刑罰の規定と判例との関係を全体的にみると、規定に該当する判例のまったくないのが、「一、主殺之者御仕置」(一〇ヵ条)、「九、相対死之者御仕置」(三ヵ条)、「一四、隠田畑之者御仕置」(一ヵ条)である。
 規定と判例との関係は、大別すると、①規定どおりに適用された申し渡しと、②柔軟性ある適用による申し渡しであった。注意すべきことは、「国日記」にみえる判例に、「安永律」の規定とまったく関係のないものがかなり多く存在することである。したがって「安永律」の運用については、「安永律」の規定にもとづく判決の申し渡しと、先例・慣習などを参照しての申し渡しとの二本立になっていた。

図180.安永律
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