預手形とは

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天保年間後期の流通統制を特徴づけるものとして、天保八年(一八三七)九月から実施された御用達商人を媒介とした領内の米穀の買い上げ制と、それに伴う「預手形(あずかりてがた)」の発行がある。買い上げに当たり、藩では準備する現金がないため、将来の米穀の領内外への売却代金で支払うことを前提にした、一種の約束手形というのが本来の性格である。しかし、現金(正金銭)との交換が原則となっており、その後、正金銭と一緒に領内での通用も認められたため、宝暦期の標符(ひょうふ)、治初年のいわゆる明治札と並んで津軽弘前藩が発行した一種の藩札と見なされている。もちろん、通用は領内だけで、他国との商売に関しては正金銭に引き替えることを条件としていた(資料近世2No.一二六)。
 同年十月一日に最初に発行したとされる手形の額面は、『記類』下では五分、一文目、七文目、一四文目、二八文目の五種類としているが、現存のものとはやや食い違いがあり、最初発行の額面は一文目、五文目、七文目、二八文目の四種類と推定される。その後十一月二十五日になって、少額取り引きの便を図るため、五分、二文目、三文目の手形を追加で発行している。(同前No.一三〇)。また十二月二十二日には逆に額取り引きのため、十文目、十五文目、二十文目の各手形が発行され(同前No.一三四)、計十種類の手形が出そろった。破れたり、剥がれてくる手形は、弘前在方御用達が一枚に付き額面にかかわらず銭三文の手数料で交換した(「国日記」天保八年十二月二十七日条)。

図190.現存する預手形(宮崎札)

 当時、藩の勘定方の実務を担っていたのは、同年四月に就任した御元方勘定奉行田中勝衛(かつえ)であり、預かり手形の発行は彼の考案によるものとされる。天保八年は前年からの不作であり、買い上げ制により不足・騰しがちになる藩内の穀物の流通を管理し、藩の統制力によって一定の価格を維持しようという意図があった。また、藩が困窮者に安く穀物を販売することで、凶荒対策も併せ持っていた。しかし、藩では連年の凶作により、現金が払底し購入資金が不足していた。「国日記」天保八年九月二十八日条(資料近世2No.一二六)によると、天保四年以来の凶作で、家中扶持米および領民の食料として購入せざるをえない米穀や雑穀が増え、多くの金銭が他領に流出し、江戸大坂廻米して換金すべき米もなく、さらに江戸表での入用のための送金をしようにも、国元には余剰金というべきものがほとんどなく、融通が行き詰まり領民が困窮に及んでいる状況が述べられている。そのため、現金の代わりに預手形を一種の藩札として通用させることにしたとある。もっとも、凶作はともかく、藩財政の窮乏はそれ以前のことからであり、翌年に予定された幕府巡見使の下向による財政支出の増加を補う必要のあったことも、当面の理由として考えられる(長谷川成一『弘前藩における藩札の史料収集と研究』 一九九五年 日本銀行金融研究所)。