強訴

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文化十年(一八一三)に津軽領最大の一揆が起こった。民次郎(たみじろう)一揆と称されるものである。それは蝦夷地(北海道)警備の出兵や藩の表高(おもてだか)(諸藩の所領の表面上の石高(こくだか))が一〇万石に格上げされたことによる出費で人馬が徴発され、年貢が重くなったところへ六分作となったためであった。
 九月二十八日未明、岩木川へ集った藤代(ふじしろ)・高杉(たかすぎ)・広須(ひろす)組などの弘前および西・北津軽地方の農民約二〇〇〇人が、弘前城外北門(亀甲門)に押しかけた。その中から、鬼沢(おにざわ)村(現市内鬼沢)の庄屋代理として民次郎が、松前(蝦夷地)への人馬賃銀、開発地面調べの公平などの願書を、郡(こおり)奉行(農村の行政を支配する者)工藤仁右衛門に手渡した。一揆の首謀者たちはまもなく捕らえられた。しかし、家老津軽頼母(たのも)の計らいにより、民次郎が一身に罪を負うことによって事態が収拾に動き、彼は斬罪に処せられたのである(同前文化十年十一月二十六日条、資料近世1No.一〇四三)。

図11.民次郎斬罪を記した国日記記事
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 民次郎の判決例は「文化律」の項目「強訴御仕置之事」の中の条文を踏まえているが、かなり重い判決(申し渡し)である。
 幕府の斬罪のやり方は、処刑者が縄をかけられたまま刑場の首斬り穴の前へ引き出される。非人二人が処刑者の腕をとらえて頭を少し前へ出させ、喉にかけられた縄を切るが、目隠しはしない。次に首討ちの町同心(まちどうしん)が首をはねる。斬罪は首を斬り飛ばすのが普通の腕前であって、これでは血が前へ飛び、処刑者の着物はもちろん斬り手にもかかる。上手な者は、咽喉の皮一枚を残して斬るといわれる。こうすると、首の重みで首が前にたれ下り、血が噴き出さないで、胴体から充分に血を流し出させることができるのだという(前掲『拷問刑罰史』・『江戸の司法警察事典』)。
 民次郎弘前城下を馬に乗せられて引き廻しのあと、取上の御仕置場に到着し、岩川久太郎検使のもと、斬罪となった。これによって、他の関係者は死刑をまぬがれたのである。