弘前城下では遊女(公娼)も隠売女(私娼)も禁止であるが、彼女たちは隠売女として後を絶たず、禁止令は幕末まで出されている。前述したように、隠売女となったのは、両浜の遊女屋から逃げ出してきた者と、下層町人や貧農の娘であった。
このように禁止されていたのであるが、寛保元年(一七四一)には、富田町が遊女を置く遊女町として認められている(『平山日記』)。
富田町は元禄十六年(一七〇三)に松森町(まつもりちょう)から新たに成立した町である。弘前城の南東に位置し、松森町の角から枡形に至る道筋の町並で、町内中央に釜萢堰(かまやちぜき)が縦貫する。当初は六五軒の屋敷割が行われ、郡方・町方・新田方三者の支配下に置かれていた。また富田新町(とみたしんちょう)とも呼ばれていた(『青森県の地名』一九八二年 平凡社刊、『青森県地名大事典』一九八五年 角川書店刊)。
遊廓の設置については、藩が正式にそれを承認したのではなく、富田町からの要望もあり、また下層町人および貧農の生活困窮の救済をも考慮して、黙認したためではないかと思われる。そのため町並・店構えなどが遊廓としての雰囲気をかもし出すようなものではなく、外観は旅人の休憩所としての茶屋であったようである。寛保三年になると、茶屋は旅人を宿泊させることも、遊女を置くことも藩から禁止され、黙認の遊女屋でなくなっていた(「国日記」寛保三年六月一日条)。
しかし、延享三年(一七四六)になっても営業している店があり(同前延享三年七月三日条)、公娼(遊女)から私娼(隠売女)として客をとっていたことが知られ、禁止されても依然としてそのような女が置かれていたのである。ただし、さほど多くはなかったようで、「国日記」には、その後城下において両浜から遊女を呼び出して酒宴を催し、隠売女をさせていたことが散見する程度である。それは、遊女が領内の温泉場へ出てきて稼ぐよりも収入が少なかったことによると思われる。
城下で遊女以外の隠売女が目立ってくるのは、富田町の茶屋が禁止された寛保三年(一七四三)以降からである。
明和七年(一七七〇)八月には多数の隠売女が追放され、博奕を打ったり隠売女を置いた城下の町人たちが、弘前追放や町内払の刑罰を科されたことがみえるので(『永禄日記』)、隠売女がかなり存在していたことが知られる。
さらに天明期に入ると、藩から城下の町や寺社に対し、隠売女を置いていると疑いを持たれないよう、日常の行動を慎むことが命じられており(「国日記」天明五年八月五日条)、このような命令は天明五~六年に集中している。それは天明三・四年の大凶作により、生活困窮に陥って、貧農や下層町人の娘が城下の各地で隠売女となり、風紀を乱したからであった。
幕末の嘉永五年(一八五二)閏二月と翌年十二月には、近ごろ有力な町人が妾などを召し抱えて風紀を乱し、また隠売女などが横行しているようで取り締まるように、という藩から町奉行に対する町方支配の心構えが出されている(同前嘉永五年閏二月五日条・同六年十二月十七日条)。
このように、幕末に至って隠売女の横行は、藩体制の弛緩・崩壊への道をたどりつつある乱れた城下の一端を示すものであった。