「祢ぶたハながれろ。まめの葉ハとゞまれ。いや/\、いやよ。」(資料近世2七六七頁)
と唱えて、笹で身を撫(な)でて川に流したのであり、送り盆または七夕(たなばた)の流し行事から起こったものといわれる。
この祭りは、現在「青森ねぶた祭り」に対し、「弘前ねぷた祭り」と呼称されている。弘前の場合は、昭和十年前後のころから弘前周辺地区で、従来までの「ねぶた」から「ねぷた」と表現するように変わってきたのだという(藤田本太郎『ねぶたの歴史』一九七六年 弘前図書館後援会刊)。
「ねぶた」と「ねぷた」のどちらが正しい呼び方であるかはさておき、本項では「ねぷた」と表現する。さらに付言するならば、この語が民俗学でいう七夕の「睡魔流し」からきたものとすれば、この語の本態はやはり「眠たい」の「ねぶた」であって、その発音を忠実に写そうとするなら、「ねぷた」からさらに進めて「ねンぷた」と書くべきであろう(此島正年『青森県の方言』一九六六年 青森県文化財保護協会刊)。
弘前城下で運行された「ねぷた」についての最古の記録は、「国日記」享保七年(一七二二)七月六日条にみえている。この日に、五代藩主津軽信寿(のぶひさ)が織座(おりざ)(機織する所。富士見橋近くの紺屋町(こんやまち)にあった)に出かけて、町印のついた一番から八番までの「ねぷた」が紺屋町から春日町(かすがちょう)へ練り歩いて行ったのを観覧している。
津軽の眠り流しがしだいに一般化して、灯籠祭として形式が整ってきたのは、「国日記」その他の記録に「ねぷた」の記事がみえはじめた享保ころでないかといわれている(前掲『ねぶたの歴史』)。天明八年(一七八八)から寛政元年(一七八九)までに記録したという『奥民図彙(おうみんずい)』(資料近世2七六七頁)にみえる「ねぷた」行列の絵には、「子(ね)ムタ祭之図」という題がついており、灯籠は大小七つみえ、角形の灯籠の中に宝珠(ほうしゅ)や甕形(かめがた)のものが混ざっている。正面に「七夕祭」・「織姫祭」・「七夕」・「二星祭」、側面には「石投無用」・「禁喧(嘩脱ヵ)」等の文字がみえる。灯籠の上に扇や三日月形の飾りをつけたり、草花の装飾があったり、さまざまな趣向をこらしていることが知られる。「ねぷた」の大きさは、二間~三間(約三・六メートル~五・四メートル)から四間~五間(約七・二メートル~九メートル)のものもあったと記されており、小さいものから相当大きいものがあったといえよう。また、「奥民図彙」には、「子(ね)ムタ」と「祢ぶた」の表記がみられ「国日記」享保七年(一七二二)七月六日条には「祢むた」と「祢ぶた」の二とおりの書き方をしている。そのほかに「封内事実秘苑」・「津軽徧覧日記」(ともに弘前市立図書館蔵)、『永禄日記』(一九五六年 青森県文化財保護協会刊)・『平山日記(ひらやまにっき)』(一九六七年 青森県文化財保護協会刊)をみても、右の二とおりか、または「ねぶた」と濁点をつけた表現のみである(前掲『ねぶたの歴史』)。したがって、藩政時代には「ねぷた」とはいわなかったらしい。
図23.子ムタ祭之図
「ねぷた」の形は、右にみたように角形の灯籠が中心であったが、文化年間(一八〇四~一八)になって、「組(人形)ねぷた」が出現した(前掲『ねぶたの歴史』)。
文政期(一八一八~三〇)以降の記録であるが、『弘藩明治一統誌月令雑報摘要抄』(資料近世2七九一頁)によれば、「侫侮多(ネプタ)の事」の表題のもと、大要次のように記されている。
文政年間には三宝(さんぼう)に蝦(えび)をのせた「ねぶた」は、額(がく)とも高さ三間(約五・四メートル)で幅が二間(約三・六メートル)あり、蝦の髭(ひげ)は唐竹二本を利用して長さが三間ほどで、額の縁は一斗入りの叭(かます)で四方を巻きつけてある。これを若者が七〇人ほどでかついで運行した。
右によって「ねぷた」はかなり大型化していたことがわかる。
藩政期の「ねぷた」の形には、角形の「灯籠ねぷた」と「組(人形)ねぷた」の二種類があったのである。