明治元年(一八六八)四月から七月上旬にかけては、藩論の統一問題をめぐって政治・軍事情勢が最も混迷した時期であった。奥羽列藩同盟への参加の是非をめぐる藩内の対立についてはすでに前節で述べたが、五月十一日に秋田藩に身を寄せていた奥羽鎮撫副総督沢為量(さわためかず)が津軽領への転陣を打診してくると、事態はますます切迫化した。沢はこの時五十六歳。安政年間から国事に奔走(ほんそう)していた公家(くげ)で、従三位に叙せられていた。彼は二月に総督九条道孝(みちたか)・参謀醍醐忠敬(だいごただゆき)らと奥羽鎮撫総督府に任命され、三月に仙台藩に出陣したが、総督府付き参謀の長州藩士世良修蔵(せらしゅうぞう)が高圧的態度で仙台藩士に奥羽鎮撫を命じたため、九条らとともに軟禁状態となった。その後、沢は仙台を脱出して勤皇色の強い東北諸藩を頼り転々としていたのである。この時期、列藩同盟参加に大きく傾斜していた家老西館宇膳(にしだてうぜん)・山中兵部(やまなかひょうぶ)らは、沢為量ひとりならどこにでも守衛して送るが、随行する薩長兵の通行には断固反対していた。西館らにとって、勤皇とは理念的に朝廷を尊崇(そんすう)することであっても、実際にそれが軍事力を動員できるとなると話は別である。薩長兵の通行を認めることは同盟諸藩の強い嫌疑(けんぎ)を受けることとなるからである。
これに対し、反対の声は秋田方面に先行出動していた番方指揮官から上がった。たとえば御留守居組頭山崎所左衛門(ところざえもん)は西館らのいう勤皇は画餅(がべい)であり、薩長兵と彼らの持つ洋式武器こそが革命の神髄であることを見抜いていた。山崎は部隊の指揮を副官の白取数馬(しらとりかずま)に託して急遽(きゅうきょ)帰城し、藩主承昭(つぐあきら)をはじめ、西館・山中や番方同役らに前線の様子を説明し、沢為量の通行を受け入れるように強く進言した。ところが、西館らは言を左右にして曖昧(あいまい)な回答しかせず、承昭に面会を求めても病気との理由で山崎は遠ざけられてしまった。
結局沢為量通行問題は現地に戻った山崎と秋田出役中の家老杉山八兵衛(すぎやまはちべえ)の独断で処理された。両名は藩兵を碇ヶ関(いかりがせき)まで撤退させ、五月十六日に秋田と津軽を結ぶ険峻矢立峠(けんしゅんやたてとうげ)の樹木を伐採し、道路を塞(ふさ)ぎ、沢に事情を述べて領内通行を見合わせてくれるように嘆願した。通行を妨げられた沢一行はやむをえず秋田能代(のしろ)から船で箱館に転陣したが、弘前藩のこの処置は後々まで鎮撫総督府の疑惑を買うことになる。道路封鎖そのものは五月下旬に解除され、秋田藩に対しては山崎と杉山を蟄居(ちっきょ)(謹慎の一種)に処することで謝罪の形をとったが、これはあくまで名目的な処罰であり、両名とも謹慎した形跡はまったくなく、同藩との間には微妙な疑心暗鬼(ぎしんあんき)が生じてしまった。
ともかく目前の危機は回避されたが、七月上旬までは同盟か勤皇かの対立はくすぶり続け、秋田・盛岡・仙台藩等との相互交渉と牽制(けんせい)裏に情勢は推移していった。特に閏四月下旬に列藩同盟が形成されると、会津・庄内征討を命じられていた諸藩は続々と解兵を実施し、軍事行動は停滞していったが、これは旗色(きしょく)を鮮明にせず、領内守衛を鉄則とする弘前藩にとりまさに絶好の機会であった。この間に軍制改革を徹底させ、新しい軍事力の創出や訓練も実施できたからである。