閏四月二十三日に上山藩から知らせを受けて、仙台・米沢藩の動きを察知した沢副総督一行は、秋田藩への転陣を決め、五月一日、新庄を後にした。沢一行の目的は、秋田領から津軽領へと転陣し、最終的には箱館(はこだて)へ向けて渡海することにあった。五月九日、久保田へ到着した一行は、十六日には大館(おおだて)に到着していた。秋田藩と弘前藩の藩境は目前である。
閏四月二十二日に締結された白石同盟の結果を受け、五月七日、弘前藩軍政局御用懸は、沢副総督一行が津軽領へ転陣し松前表へ渡海する可能性があるとして、その対応策を進言した(資料近世2No.五三〇)。この対応策では鎮撫使の通行については、津軽弘前藩の手で警備したうえで通行させるが、「近臣」や薩長両藩兵を中心とする「諸藩御供勢」、つまり、軍兵の入領は許可できないとした。これは、「前件之会議」、すなわち、白石同盟が結ばれた会議の場で議題となった内容に基づいた処置であり、無理に通行しようとするものに対しては、武力による排除をも認めるものだった。白石同盟諸藩の間では、沢副総督等の転陣問題について話し合われていたが、沢副総督一行が松前へ渡海して同所の軍勢と合流し、総兵力を強大化させることを危惧しており、このため津軽領を通過させないと合意していたのであった。
なお、白石同盟の盟約の中には「一、此条至急ニ付、今日中奥羽之列藩尽衆議、至当之公論ニ帰シ、総督府江訴訟討庄之兵御届一ト通リニシテ即日解兵之事」という条がある。この条を受けて、弘前藩では、五月四日の藩主諭告で討庄応援兵の解兵を布告した。実際には、白石同盟が締結された際、盟約に従って、佐藤英馬が帰藩の途中に即日解兵を申し付けていたので、既に解兵は行動に移されていた。そして、この兵が碇ヶ関付近の藩境に集められ、そのまま警備を命じられたのである。
ところで、この白石での会議には、秋田藩代表の戸村十太夫も出席しており、この席で、戸村は沢副総督一行を決して津軽へ通さないと発言していたが(同前No.五三一)、総督軍が弘前藩領を目指すとすれば比較的勤皇色の強い秋田領を通行するはずなので、弘前藩としては、転陣の真偽および秋田藩の意向等を確認する必要があった。このために、弘前藩は佐藤英馬を秋田へ派遣して、協議の場を持たせたのであった。
佐藤英馬は、白石会議に秋田藩の副使として参加をした金(こん)大之進との話し合いの中で、同人から「弊藩固ヨリ勤王ナラサルニアラス、顧ルニ各藩ノ議亦理アルニ依リ、合同解兵ヲ謀ル而已(のみ)、今仙台盟ヲ破リテ王師ニ抗シ、且督府三卿ヲ抑留セントス、是盟約外ノ挙ト云フヘシ」(「戊辰年間旧藩記事」第二巻 国史津)という発言を受けた。秋田藩は和平的な解決のために同盟に参加し、解兵をしたのであるが、転陣問題では、仙台が総督府三卿を抑留し、反官軍的な行動をとろうとしている。秋田藩は、この仙台藩の行動が、盟約の精神に沿ったものではないことを理由に挙げ、既に秋田へ入領している副総督一行に逆らうつもりはない意向を示した。事実、既に閏四月二十七日には、奥羽鎮撫総督府のうち九条道孝(くじょうみちたか)総督と醍醐忠敬(だいごただゆき)参謀は、仙台藩重臣の邸に移され、軟禁状態下に置かれており、さらに、同盟諸藩の中には、秋田から沢副総督をも呼び戻し、仙台藩下で保護しようという動きもあった。結局、五月十四日、上京して奥羽の情勢について説明をしたいという九条総督の意向を受けて、総督府一行を盛岡へ向けて出発させたため、この案は実現されなかった。しかし、こうした中での佐藤英馬と金大之進との話し合いの内容は、弘前藩にとっても秋田藩の姿勢を理解するのに十分なものであった。
五月十日になると、沢副総督付属の藤川能登ら三人の先触れが到着し、領内通過および箱館渡海の手配を求めるとともに、正式に沢副総督の津軽領への転陣依頼が伝えられた。軍政局御用懸の懸念が現実問題となったのである。よって、ここでは、その後の弘前藩の対応について「弘前藩誌草稿」(資料近世2No.五三〇)をもとにみていきたい。
秋田へ派遣していた佐藤英馬の報告を待つ弘前藩は、ひとまず藤川能登一行を足止めすることとした。ただし、軽挙を慎み、対応策を決定するまで丁重に応対するように念を押している。
翌十一日、佐藤英馬の報告を受けた弘前藩は、これを了承して、藤川能登一行の領内通過については、「碇ヶ関ヨリ黒石通リ三馬屋迄通行ニ相成候様」と弘前城下を避けての通過を指示した。また、沢副総督の転陣については、先日の軍政局御用懸の上申による鎮撫総督府三卿のみの通行許可を翻(ひるがえ)し、一行全員の入領許可を布告している。弘前藩も秋田藩同様の理解で、鎮撫総督軍に疑念を抱かせる行動はとるべきではないと決論づけた。しかし、あくまでこれは、四月二十二日前後の白石同盟を踏まえた情報に基づくものであった。
図57.庄内藩士が描いた碇ヶ関
翌五月十二日、再々度藩の方針は転換された。仙台藩使者水野邦助が弘前に到着し、五月三日の奥羽列藩同盟の成立を伝えたのであった。その日のうちに御目見以上を登城させ、藩主諭告を公表した。沢副総督一行のうち、特に薩長両藩の兵に領内を通行させることは、奥羽列藩同盟における衆議に反することにもなるので、許可できないと判断が下されたのである。また、家老口達では粗暴(そぼう)の行動を諫(いさ)めながらも、万一には戦闘に及ぶ覚悟も促していた。つまり、奥羽列藩同盟の締結とその盟約内容は弘前藩にとっても、他藩にとっても看過(かんか)できない大きな意味と拘束力を持つものであったのである。
したがって、藤川能登一行への対応も変更され、入領拒否が命じられた。そして、五月十三日付で今回の入領は沢副総督のみで、薩長兵は許可できないこと、これは、奥羽諸藩の合同決定であることが正式に返答された(同前No.五二九)。藩主津軽承昭(つがるつぐあきら)から沢為量へ宛てた書翰には、奥羽地方がまだ鎮静されていないので、転陣は人心を乱す結果になるという理由で秋田への滞留を願う内容が記されている(同前No.五三〇)。