ここで、全国的な戊辰戦争期の動向を確認しておきたい。まず、閏四月末から仙台藩の保護下にあり、事実上は軟禁状態下にあった九条道孝(くじょうみちたか)と醍醐忠敬(だいごただゆき)は、五月十八日、仙台を出発し盛岡藩を経て秋田藩へと移動した。その間、一橋家家臣渋沢成一郎・天野八郎を中心として結成された彰義隊(しょうぎたい)は反政府的な色彩を濃くし、徳川慶喜が一時身を寄せていた上野東叡山寛永寺を拠点として、脱走兵などを含めて勢力を拡大し、活動を活発にしていた。五月に入り、とうとう政府は彰義隊の一掃を決定し、五月十五日、大村益次郎(おおむらますじろう)の指揮のもとに上野に総攻撃をかけ、これを壊滅させたのであった。敗走する彼らの中には、さらなる抵抗を求めて、戦線を追いかけ、北上するものも多かったが、こうして、まず上野戦争に決着がつき、政府は完全に江戸方面を手の中に収めたのである。
一方、奥羽鎮撫総督一行の仙台脱出を許した奥羽越列藩同盟は、六月十六日、会津に身を寄せていた上野輪王寺宮公現(りんのうじみやこうげん)法親王(北白川宮能久(よしひさ)親王)を盟主として担ぎ出した。会津・庄内両藩の恭順嘆願、和平的解決を目指すどころか、逆に全面的対決への変質を明らかにしつつあったといえよう。
奥羽攻防の要として重要な意義を持つのが東北地方の玄関口ともいえる「白川関(しらかわのせき)」である。閏四月より両者の間で白川城をめぐり、攻防戦が繰り返されていた。五月一日に政府軍が白川を押さえて以後も仙台・会津両藩は奪還を期すべく攻撃を続けていた。しかし、それがかなわぬままに戦線は拡大していく一方だった。
奥羽越列藩同盟に新たな展開をみせた六月十六日、平潟(ひらかた)港(現茨城県北茨城市)に政府軍が上陸を始める。そして、仙台を目指し侵攻を始めた。
では、日本海側の状況はどうなっていたのであろうか。会津藩とともに朝敵として厳重処罰の矢面に立たされた藩に桑名(くわな)藩があった。同藩の国元では一月十二日恭順の意向を示し、同月末には桑名城は政府の手に渡っていた。一方、藩主松平定敬(さだたか)らは徳川慶喜とともに江戸へ下っており、再挙も念頭にあったという。しかし、慶喜は謹慎を決め、定敬は、分領のあった越後柏崎(かしわざき)へと身を寄せることとなった。その行程は、三月十六日横浜より出港、箱館を経て四月八日柏崎に到着というものである。この雇い入れた外国船には長岡(ながおか)藩河井継之助(かわいつぎのすけ)一行も同船していた。やがて恭順派であった桑名藩家老吉村権左衛門は暗殺され、定敬は恭順を拒否したため、桑名藩は国元にいる恭順派と分領にいる藩主のもとにある主戦派の二つに分かれてしまった。松平定敬らは、やがて榎本武揚(えのもとたけあき)らと合流し、箱館戦争が終了するまで旧幕府軍として行動した。
閏四月、政府軍は北越地方の平定に動き出した。河井継之助を中心とする長岡藩は態度を決めると、頑強に抵抗を開始し、同地方は長岡城攻防を軸に北越戦争へ突入することとなった。政府軍が長岡・新潟方面を完全に掌握するには、八月初旬までの時間を要するのである。その後は、会津方面へと主戦線が移動し、政府はようやく東北平定に全力を傾けることができるようになった。