悪戸焼の創始について『青森県総覧』(一九二八年 東奥日報社刊)によると、「文化三年ころ、石岡林兵衛(いしおかりんべえ)が羽後(うご)十二所(現秋田県大館市)より源七を伴ひ来たり瀬戸物の研究をしたが結果が思はしくなかった。林兵衛屈せず同所から清兵衛・永之松二人の陶工を呼びよせて造らしたが(中略)出来た品物は実に立派な物で世人を驚かした」(五二六頁)との記述がある。
図144.悪戸周辺地図
「御用格 寛政本」(弘図津)巻十八―作事―の文化六年(一八〇九)九月八日条によると、秋田領(場所不明)で製瓦技術を習得してきていた鋳物師冨川屋圓次郎(とがわやえんじろう)が、城中の塀と番所の屋根に用いる瓦の試焼に当たることになった。「国日記」によると翌七年、圓次郎は宇和野(うわの)の銀納畑のうち土取場・焼場所とも二反歩(約一九八〇平方メートル)の所で瀬戸瓦の焼成に取りかかったが、翌八年には手薄という理由で窯や名義を猿賀屋小右衛門(さるかやしょうえもん)に譲っている。その際の申し付けによると、瓦は試焼段階にあるが、瀬戸焼(陶器)は国産になるので自由に焼き出すようにと記述されている。記述内容からすると、瀬戸焼は以前から焼き出されていたことになる。なお、瀬戸焼は釉(ゆう)がけをしたものか無釉のものかは不明であるが、文化年間初期に悪戸村で製陶が行われていたことは確かであり、これが悪戸焼の源流と考えられる。
「文政七年八月御国産品書上」(国立公文書館蔵)の中に、「御役上納之部 一、瀬戸物 下湯口村林蔵(ママ)手ニ而相成罷有候」とあり、悪戸の瀬戸物が国産品として挙げられている。「国日記」文政十年(一八二七)十二月二十四日条には、御留守居支配長尾惣兵衛が国産方(藩内の殖産興業や国産専売に当たった)として椀並びに瀬戸物の生産に尽力した功績で勘定小頭格に昇格した記述が認められる。「封内事実秘苑(ほうだいじじつひえん)」(弘図郷)の文政九年七月二十四日条によると、藩主が湯口(現市内下湯口)の陶座を見分しているが、同十一年、十二年にも悪戸村瀬戸山に出かけている。
以上の記録から、悪戸村での製陶は文化年間初期から始まり、文政年代(一八一八~一八二九)末には国産方により窯業として成立しえたことがわかる。
「封内事実秘苑」天保元年(一八三〇)二月十一日条によると、湯口村(下湯口を含む)では国産陶器の焼成が引き続き盛んになって来ていた。藩では国産品の保護育成のために、白焼(この場合は磁器)は別として、悪戸で焼成される雑焼の移入を禁じた。しかし禁止の一方、それまでの供給実績や、やむをえない場合には事情を考慮して瀬戸商人を指定、種類限定のうえで移入を認めている。
「国日記」天保六年十二月十九日条の瀬戸仕込み金に関する記述の中に「瀬戸師五郎七(ごろしち)(五良七とも)の名が出てくる。五郎七は筑前上須恵(ちくぜんかみすえ)(現福岡県糟屋(かすや)郡須恵町上須恵(かみすえ))の瀬戸師で、天保三年瀬戸商人彦右衛門(ひこえもん)の斡旋で陶磁器の生産指導のために迎えられたものである。天保八年には、下川原の白焼瀬戸座に移り製陶に当たった。
なお「封内事実秘苑」天保十一年十二月十八日条に、悪戸村瀬戸座で肥前(現佐賀県)の瀬戸師宇吉(うきち)(卯吉とも表記されている)の指導で白焼瀬戸がみごとに出来上がったとの記述がある。「岩手の陶窯―山蔭日誌」(盛岡市立図書館蔵)によると、宇吉は天保六年に盛岡の山蔭(やまかげ)焼の窯場で磁器の焼成に当たっていたが、凶作で窯場閉鎖のため、新たな窯場を求め歩いていたのである。