「国日記」によると、本城(本丸)の御殿と各蔵、二・三・四各丸の城門計五ヵ所、二の丸瓦馬屋・太鼓櫓・腰掛その他、および三の丸屋形(邸宅)等。城外は賀田焔硝蔵(よしたえんしょうぐら)(賀田は吉田とも。跡地は現中津軽郡岩木町五代早稲田)・百沢寺(ひゃくたくじ)(現岩木山神社、中津軽郡岩木町)の宝蔵その他、および報恩寺(ほうおんじ)等に国瓦や移入瓦が使用された。以上の中で最も古いのは延宝二年(一六七四)の二の丸瓦馬屋の作事である。
次に、これらの中から主なものについて取りあげる。
城内の場合、本丸では一部の建造物の屋根周りや棟瓦に使用された。また、金蔵をはじめとする各蔵は瓦葺きであった。金蔵の瓦作事についてはすでに焼成のところで触れた。
各丸の城門については二の丸の南門(現南内門)と東門(現東内門)、三の丸の南門(大手門とも表記。現追手門)と東門、四の丸北門(現北門〈亀甲門〉)はそれぞれ瓦葺きであったが、葺き初めの年代は異なる。「国日記」での初見は二の丸東門と南門で、天和三年(一六八三)七月六日条にみられる。なおこの門については、合わせて六〇種類の瓦を取り混ぜ、約一万七八六四枚の瓦が見積もられている。その後、三の丸南門、次いで東門と続き、四の丸北門は元禄十四年(一七〇一)に認められる。もっとも、各門が創建当初から瓦葺きであったかどうかについての記録はない。
「国日記」享和二年(一八〇二)二月三十日条によると、東門は鯱(しゃちほこ)・鬼板とも鉄の鋳物を用いている。現在、他の門と同様銅瓦葺きであるが、鯱だけは鉄の鋳物である。鯱は他の門および隅櫓等にも取り付けられていたが、木彫りで作り黒の彩色を施していた。現在は東門を除き木彫の鯱を銅板で覆ったものである。
図153.弘前城内の瓦
なお、本丸の隅櫓(戌亥・辰巳)については、屋根葺材の記述は認められない。現在の天守閣は文化六年(一八〇九)に起工し、同八年三月に竣工しているが、屋根は最初から銅瓦葺きであった(『庭園発掘報告書―瓦』三四・三六頁)。二の丸丑寅・辰巳・未申の各櫓は築城当初は栩(とち)葺き(同前三四頁)、「国日記」享保十九年(一七三四)三月二十七日条には巽(辰巳)櫓大栩葺(とちぶき)の記述がある。これら栩葺きは銅瓦の普及につれて逐次葺き替えられた。その理由は瓦葺きの場合と同様、屋根材の朽損による修復費の軽減と、防火の利点が挙げられよう。
城外の場合、①報恩寺(現市内新寺町)玄関・本堂・客殿・護摩堂・位牌堂および中門と両側の塀、番所などには屋根瓦や棟瓦が使用されていた。元禄十七年(一七〇四)三月十三日条によると、報恩寺作事入用瓦として九万枚余の見積もりが出されている。調達方法は国瓦によることになったが、当時の焼成能力は、細工人二〇人足らずということで年間二万五、六〇〇〇枚と試算されている。なお報恩寺の境内では黒瓦(焼成の終期に燻(いぶ)して表層を黒くした瓦〈耐水性と硬度を高めかつ美化をはかった〉)の破片が散見されるが、大塚理右衛門印銘の瓦片も出土している。
②百沢寺では、元禄十一年(一六九八)八月二十三日条によると、神蔵および黒門・番所・腰懸(掛)・外繋(そとつなぎ)(戸外の馬つなぎ場)は瓦葺きであった。初見は元禄五年(一六九二)九月二十日条の蔵の破損瓦の修復である。境内では黒瓦の破片が散見される。
③賀田焔硝蔵は東・中・西の三棟からなっていた。初見は元禄三年(一六九〇)三月九日条に認められるが、屋根丸瓦の破損、その他に関するものである。修復の記述は、享保十七年(一七三二)に瓦を取り払い土屋根に代わるまで、一〇件ほどみられる。なお跡地からは黒瓦の破片が出土している。
以上のほか、享保六年(一七二一)七月には、貞昌寺(ていしょうじ)(現市内新寺町)が経堂を瓦葺きにする目的で国瓦四八五六枚の借用を申し出、便宜が図られている例がある。
これまで述べた城内外の建造物における瓦の利用は、享保年間よりしだいに銅瓦や栩葺き・こけら葺き等に代えられ、明和六年(一七六九)六月十一日条の本丸金蔵屋根葺き用補完瓦の焼成を最後に製瓦の記録はみられない。利用されなくなった理由はこれまでも触れたが、雪国における経済的な理由によるものである。その後、約五〇年を経たころから再び試焼が行われるようになる。文化七年(一八一〇)には、城中の塀等一部建造物の屋根葺き用に、鋳物師圓次郎(えんじろう)(冨川(とがわ)屋)が宇和野銀納畑(上野とも表記。弘前市の小沢と樹木を結ぶ付近の地域)の一部を借地のうえ試焼を命じられている。その後、手薄ということで猿賀屋小右衛門(さるかやしょうえもん)へ窯と名義を譲渡した。
下湯口(現市内下湯口)の瀬戸師石岡林兵衛の場合は半官半民の形で、藩用品を含め商用としての製瓦であった。天保十二年(一八四一)には瓦について松前と商談をとり付け、瓦焼成のうえ前金六〇両を受け取り、鰺ヶ沢より無税で移出する許可を得ている。それについて、他邦へ粗悪品を売り出しては後々信用にかかわるので、林兵衛一手に願いたいとの要望も付け加えている。瓦はその後も時々焼いており、嘉永二年(一八四九)には林兵衛焼き出しの瓦で城郭廻り諸番所、塀廻り屋根、蔵等をしだいに瓦葺きにする計画が出され、嘉永四年(一八五一)には御用瓦二〇〇両を焼き出している。下湯口の神明宮にある嘉永六年(一八五三)の寄進札の最初に「一、瓦・左官 石岡林兵衛」と記されている。林兵衛自製の瓦と、左官の費用を寄進したのであろう。
なお、藩政時代には一部の家老の場合を除き、一般家屋の瓦の利用はなかった。