信政の文治

569 ~ 571 / 767ページ
文運隆盛の礎は、「中興の英主」として仰がれた四代藩主信政(一六四七~一七一〇)の治世下において築かれた。「高照宮御遺鑑」、「明君夜話近士口伝集」、「貞享規範録」(資料近世1No.八九四)、「古往万徳集」など、信政の人並みはずれた言行を伝承したいくつかの著述が残っている。「貞享規範録」は、「貞享年間の信政の治世に政道の規範を仰いだことに由来する表題で、「二代目の乳井貢」との聞こえのあった森内繁富が、文化三年(一八〇六)に著したものである。信政は名君として、その治世は政道の模範として後世にまで伝承されていった。
 信政は新田開発岩木川改修、貞享検地、領内産業の育成等々多くの治績をあげたが、文教面でも江戸上方から多くの指導者を招いて、文化の飛躍的向上に力を尽くした。この時期に招聘された主な人物を列挙しておこう。
  儒者小見山玄益、小泉由己(ゆき)、砂川惣左衛門、五井藤九郎(ごいとうくろう)(蘭洲)、桐山正哲(しょうてつ)
  神道山野十右衛門、北川新次郎、河原岡新右衛門・同新次郎
  和学十河能登、湯浅律斎
  書学佐々木次郎(養和流)、乙部喜八松浦治左衛門大橋彦左衛門小沢久左衛門後藤千次郎松田伝右衛門三宅貞右衛門
  医者樋口道与中丸昌益(外科)、渡辺益庵上原春良井上玄庵境寿元(詮と改む)、境寿光(眼科医)、伊崎寿仙須田宗久和田玄亮河野祐作(針医)、古郡玄宣佐々木宗寿、小山内三益、八郎兵衛(歯科医)、豊田検校、十河能登、湯浅律斎渋江道陸
  算術測量金沢勘右衛門清水貞徳
  兵学山鹿(やまが)八郎左衛門、松田五郎左衛門磯谷十助・同新八、貴田(きだ)孫大夫、牧野伴右衛門川越清左衛門(以上、山鹿流)、遠藤伊兵衛(楠流)、小畑孫八(小幡流)
  剣術當田(とだ)半兵衛(當田流)、山田仁右衛門(梶派一刀流)
  弓術本間民部左衛門(木村典膳と改む)、加藤八左衛門鈴木定右衛門勝元水右衛門加藤新左衛門
  諸礼式横山嘉右衛門(小笠原流)、斎藤長兵衛
  茶道野本道玄(どうげん)、後藤兵司高杉久伯
  絵師鵜川常雲(法橋益弘)、今村朴元(栄理)、秦新右衛門(養雪と改む)、新井寒竹、片山弥兵衛養春
  芸能日吉権大夫高安治左衛門春藤伊右衛門西村十左衛門藤田伊右衛門(以上、能)、林兵九郎近藤源右衛門(以上、狂言)、幸清九郎、(佐藤と改む 小鼓)、杉野市郎兵衛奥田荘左衛門(太鼓)、西岡三四郎砂川伝八(以上、笛)

 このほかにも紙漉(かみすき)師、蒔絵(まきえ)師、養蚕織物師、金具(かなぐ)師、鋳物(いもの)師、塗師(ぬし)、鏡研(かがみとぎ)、大工、石工(いしく)、造船、木地挽(きじひき)、瓦師、桶屋、瀬戸物、屋根葺、車牛遣、庭師、鷹匠、具足師、鍛冶師、弓師、矢師等々、生活全般の領域に及んで技能者が多数召し抱えられた。その数は優に二〇〇を超える。信政は他国者に対する国元の技能者からの羨望や反発を配慮しながら、招聘した諸芸百工の知識・技術指導による殖産興業文化興隆を積極的に推し進めた。
 上級藩士出席による城中講席も信政の時代から始まった。「国日記」によれば寛文六年(一六六六)正月八日には小宮山玄益の「小学」の講釈が始まっている。以後、「論語」・「大学」が講じられ、延宝六年(一六七八)からは兵書も松田五郎左衛門、小幡孫八、磯谷新八等によって講じられた。法典・管制・職制も整備されていった。信政によって藩政は文による統治の時代へと大きく転換した。