弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画

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平成九年(一九九七)の調査終了時点で、市内八四ヵ寺に八三〇件二〇〇〇点余りの幕末までに造られた仏像仏画が現存していることが確認された。全体の傾向としては、中世にさかのぼる作例がごく少なく、大半が江戸時代中に制作されたものであったことが挙げられる。城下町として生まれた弘前としては自然なことかも知れないが、寺々の弘前移転以前からの仏像と確認できるものは見いだされていない。こうした現状には移転や寺町の火災、宗派確立時点での本尊像整備などの事情もかかわっていよう。数多くの寺の中で、藩とかかわり深い長勝寺報恩寺貞昌寺本行寺誓願寺などに作風の優れた像が多かったのも特徴である。それは、江戸時代、仏像およびそれを造る工房にランクが生じていて、藩の庇護により寺格や経済力のある寺々が比較的高いランクの仏像を求め得たことが反映している。
 これらの仏像の中で津軽で刻まれたことがほぼ明らかなのは、石川大仏院の十一面観音坐像(図185)や大きな石仏、津賀野便心寺大日如来坐像だが、良い意味で地方色の強い造形が魅力的である。殊に大仏院像は桃山時代天正五年(一五七七)の造像と伝えることも貴重で、整ってはいてもやさしさに欠ける江戸時代一般の仏像と好対照な親しみのもてる表情が特徴的である。それら以外の弘前の仏像のほとんどは江戸上方から入手したものであるが、江戸京橋の小林長五郎作・西光寺金光上人坐像、京堀川綾小路弘教作・報恩寺地蔵菩薩半跏像、京七条仏所右京了意作・隣松寺千体地蔵菩薩立像など制作地と名高い仏師の名を確かめ得るものも少なくない。また、弘前に江戸上方双方の仏像が運ばれていたことは、近世の仏像流布の問題を考えるうえで重要である。その問題を考えるとき、現在長勝寺に安置されている三門楼上羅漢倚像八体、蒼龍窟羅漢立像坐像一〇九体(図186)に関する伝承も興味深い。すなわち前者は信枚寄進の十六羅漢群像の一部で、上方から運ばれる途中半数の八体が海難で失われたと伝える(資料近世2No.三九九)。実際八体の羅漢群は不自然だから事実を伝えていよう。またもとは寛永五年(一六二八)建立の百沢寺(ひゃくたくじ)山門に安置されていた五百羅漢像が、長勝寺蒼龍窟に一〇九体(一部は補作)、弘前市内および津軽一円の寺院に二〇数体残されているが、これもうち二〇〇体は津軽に運ばれる途中海中に没したという(「封内事実秘苑」)。京から最も遠い弘前に上方仏像が多数存在している事実や、その運搬が必ずしも容易でなかったことが確かめられる。ちなみに江戸時代中から四国や近畿地方では京や大坂から求めた仏像の修理を製造元に送り返して行っていたが、弘前市内の仏像をみる限り、つたない修理がほとんどで、明治ころまでは運搬の危険もあって修理は津軽の仏師が行っていたようである。なお、そうした在地の仏師は、本尊像ではなく、地蔵堂や観音堂、あるいは亡者供養の小像など限られたものを手がけていたようである。

図185.木造十一面観音坐像


図186.木造羅漢立像

 このほか弘前の寺院所蔵文化財で注目されるのは、寛文五年(一六六五)に弘前城下に滞在して仏像を刻んだ円空作の三体の仏像、および県内で最古(鎌倉時代末)の本格的絵画で、他県の作品とくらべても優れたできばえの貞昌寺本著色当麻曼荼羅(たいままんだら)(図187)などがある。また、今後の精査が必要なものに社寺の石造狛犬があり、これは在地の造像だけに変化のある表現に興味が尽きない。また、久渡寺蔵の本墨画淡彩反魂香図(通称幽霊図)は日本中にあまたある伝円山応挙(まるやまおうきょ)筆幽霊図中の白眉であって、応挙自身の手になる可能性が高いことが明らかとなり、その後多くの近世絵画史研究者からも追認されている。東北地方に応挙の作品が少ないことだけでなく、とかく際物扱いを受けることが多い幽霊画の中で、絵画として高く評価し得る作品と認められた点に久渡寺本の価値があろう。

図187.本著色当麻曼荼羅