弘前の紛紜の始まり

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明治十四年八月十一日、中津軽郡笹森儀助は、青森県令に自由民権の結社共同会に官吏が入会することの適否を伺った。これに対する県令の回答は次のとおりである。
「書面伺之趣 法律上明文無之上ハ各自随意タルヘキ 但公衆ヲ集メ講談演説ノ席ヲ開等ノ儀ハ太政官達ニ抵触スル儀ト心得ベシ」と集会条例に触れないと言いながら、山田県令はさらに言葉を継ぎ、「該会社ノ如キヘハ加入セサル様注意スヘク自然説諭ニ背キ入社スル如キハ其事由ヲ具(つぶさに)シ伺出ス可ク 此旨内訓候也」とつけ加えた。
 ところが、明治十四年十月十二日国会開設の詔が出されたので、県令は前言を翻して共同会員の館山漸之進を東津軽郡長に登用し、さらに地方衰頽(たい)を挽回して将来の進歩を図るに衆力を集め、衆知を合するの外良策なしとし、本多を招いて談じ、明治十四年十月二十八日の集会となったのである。
 この日の席上はもちろん、翌日の工藤行幹の宿舎での会議にも別段反対がなかったので、一二人全員が発起人となって広く有志を集めることになった。檄文は本多庸一が草稿を練った。檄文の主眼は、
 (一) 勅諭に奉答して政治思想を渙発せしむ
 (二) 学校を盛んにして知識を拡充す
 (三) 産業を盛んにして国本を固うす
というものであった。合同問題は、本多庸一が大道寺議長や郡吏員に対して申し入れたことを契機として山田県令が乗り出したのだから、本多について期待も大いに高まった。それは十一月の臨時県会の言動のはしばしににじみ出ていた。
 しかし、本多の県会での発言は、弘前出身の保守派のみならず、多数の県会議員に反対される要素を持っていた。臨時県会での土木費賦課法、徴収手続案の審議において、「戸数割」の内容が均等割か財産割かにおいて争われた際、本多は県会が徴税方法の細目まで決めてしまうのは町村会の領域を侵すことになると反対した。地方自治を重んじた意見だったが、三人の議員しか賛成しなかった。本多は地方自治の精神と良心の自由の問題を底において論じた。しかし、彼の良心の自由の問題は誤解された。のち議長になった小田桐勝英も、本多の説では「同胞相救ハザルニ至ル」と言い、角鹿艮右衛門は本多の意見は「法理ナリトイフモ強(あなが)チ理ノミニ拘泥スベカラズ 公平条理ニヨレバ却テ惨情苛酷ニ至ルモノナリ 公平条理ノ文字コソヨケレ 却テ害トナルコトアリ 此議会ハ法廷ニ出テ法理ヲ争フガ如キニアラズ」とたしなめた。
 本多の真意は、できることならば臨時土木費の議案を否決したいということにあった。しかし、民力休養を願う彼の気持ちは、この夏の水害、さらに来春の融雪期への対策を差し迫ったものとしている各議員や当事者の各郡長の心をつかんでいなかった。本多は民力休養の観念に振り回され、現実を軽く見たきらいがある。
 結局、臨時県会終了から六日目の十一月十四日、合同問題の要(かなめ)にいた中津軽郡笹森儀助の辞任という事態が起き、さらに翌十五日県会議長大道寺繁禎県会議員を辞職し、本多に「到底団結に従事し難いゆえ、発起人から除名あるべき旨」の手紙を残して直ちに上京した。国士肌の笹森の辞表は型破りだった。通常は一身上の都合とあるものを「県令は主義を換ふるものである。県令は職権をもって団結を図った。県令は一の共同会と共に事を図るものである」と上司を批判・攻撃をした。保守系の大幹部が職を賭しての行動なので世評は沸き、流言が飛びかった。県会で本多を押さえたのは、自由民権運動を県下に推進するときに同志になった七戸の山田改一だった。西欧的教養で政治上のロマンチストだった本多を、リアリストで法制や地方政治に経験の深い山田改一が押さえ込んだ論戦だった。
 ほかにも、東奥義塾グループから離脱したのは陸羯南である。『青森新聞』では編集長として新知識ぶりを発揮し、国会開設尚早論を駁(ばく)し、明治十三年四月二十二日には筆禍を起こし、中田実として罰金一〇円を受けている。彼は世間に前年九月、中田姓から陸姓に変わったと連絡しており、一部の伝記には徴兵逃れのためと書かれているが、それは誤りである。事実は四世代一五人がひしめいていた中田家の相続のトラブルから抜け出るためである。したがって、戸籍が本当に改められたのはこの後になってからである。羯南は十三年八月「虚理空談未だ争うに足らず」と言って津軽を去り、北海道紋別製糖所の実務に就いた。
 明治十四年十二月十四日の『青森新聞』第四三〇号の雑報欄に、本県吏員任免が報ぜられた。「東津軽郡長館山漸之進君が中津軽郡長に任ぜられ、東津軽郡三浦清一君は当分同郡長心得申付けられ、中津軽郡笹森儀助、同郡書記伊東正長、同内藤吉郎太の三君は依願本官を免ぜられ、本県士族菊池九郎君は東津軽郡長に任ぜられ、本県士族小館兵吾君は南津軽郡書記(一五等相当)に、同野際原吾君は同郡書記(一七等相当)に、そして南津軽郡書記清野準一外崎高勝益子力太郎中津軽郡書記菊池楯衛楠美晩翠谷口永太郎太田静成田邦彦、東津軽郡書記田中幹造の九君は依願本官を免ぜられた」と大々的な人事異動が発表になった。弘前の紛紜は第二のヤマ場にさしかかった。