しかし、津軽地域においては、当時、「大地主」のメルクマールと言われた五〇町歩以上地主が多数いたわけではない。この時期の主な多額納税者と大地主は、松木彦右衛門(弘前市、四代目、実業家、貴族院議員)、宮本甚兵衛(弘前市、実業家、貴族院議員)、岩谷吉太郎(藤代村、第三代村長、県会議員)、高谷貞助(船沢村、中津軽郡議会議長)、高杉金作(高杉村、衆議院議員、弘前商業会議所会頭)、笹森栄(和徳村、村長、県会議員)、松木純一郎(千年村、村長、県会議員、酒造業)、宮川久一郎(弘前市松森町、二代目、貴族院議員、弘前商業会議所会頭)、中谷熊吉(弘前市浜ノ町、実業家)、桜庭秀輔(弘前市桶屋町、市会議員、実業家)らである(「青森県多額納税者及び大地主」、資料近・現代1No.四二五、「五十町歩以上ノ大地主」、同前No.四二六)。これら「大地主」の経歴からもわかるように大半が実業家として活躍した人々であり、いわゆる小作料収奪的「寄生地主」的土地所有とは異なっている。
次に、この時期の集落レベルの自小作別農家の状況を見ておきたい。青森県農会が明治四十年(一九〇七)から同四十一年にかけて清水村(大字富田、紙漉町、小沢、坂元、悪戸、下湯口、常盤坂)で行った調査(『中津軽郡清水村 農事調査』、明治四十三年六月)によれば、清水村の形態別農家は、自作-農家数一三四戸・農家人口九七三人、小作-同一六七戸・同一三四〇人、自小作-同一一〇戸・同七四九人、合計-同四一一戸・同三〇六二人となっており、その割合は、自作三二・六%、小作四〇・六%、自小作二六・八%の比率である(ただし、数値は再計算した-筆者)。自作と小作の反別割合では自作地四六一町一反(六五%)、小作地二五一町一反(三五%)となっており、小作地面積は全国傾向と比べると少ないが、徐々に増加する傾向にあった。
そして、このころになると「地主と小作人との関係」は、小作料を単に収納するだけのものと「土地の生産大ならしむるを計る等万事に世話するもの」に分かれるなど、地主の存在と在り方が問われるようになった(同前)。特に、日露戦争後の農村疲弊と明治三十年代後半の連続凶作による貧農層の増大に直面したことから、農業生産力の向上と困窮農民の生活改善のために、行政側としては地主の意識改革を行うことが課題となった。
明治四十一年(一九〇八)七月、県当局はこの時期の農村不況に際し、在村地主に農業振興の指導的役割を期待し、本県農事の改良と農村の振興を目的に県会議事堂において、県下二〇〇人余の地主を参集させ、地主懇談会を開催した(「青森県地主懇談会記事(青森県農事要報第九号)」、岩見文庫蔵)。懇談会では、知事や内務部長が県下の有力地主に率先して、農事改良の取り組み、地主の小作人に対する融和策や「保護奨励ノ方法」の事例を説明した。
懇談会の協議課題は、第一に、農事改良上の小作人の保護奨励の方法、第二に、地主と小作人間の精神上の結合方法、第三は、産業組合の設立とその運営方法である。
このことは、地主対小作人の関係が、明治期前半までの温情的な人格関係から、経済的な債務関係が前面に出てきたことを意味している。行政側は、問題の解決のために一方の当事者たる地主の組織化が必要になり、町村地主会の結成を呼びかけた。地主会に求められたのは、頻発する凶作の原因について天候を理由にして片づけることなく、馬耕の奨励、種子の選択、耕地の改良、副業の奨励など、地主の目を農事改良に向けることであった。
しかし、農業振興に力を入れる在村の地主も見られたが、農地所有を投資先の一つとして考えた場合、農外の有利な場に向かう者も少なくなく、関心の高まりは必ずしも全体の地主のものにならず、設立された町村地主会も名目的なものが多かった。このような地主の意識状況は、次の大正期に地主・小作間の対立の要因となり、深刻化していった。
なお、地主懇談会の参加者(弘前市及び中津軽郡関係)は、以下のとおりである(「青森県地主懇談会出席者」、資料近・現代1No.四二八)。
弘前市-玉田惣次郎(茂森町)・山内勘三郎(富田新町)・石崎金蔵(和徳町)・菊池定次郎(東長町)、清水村-成田有作・楠美冬次郎・石岡粕太郎・中田平次郎(清水村長)、和徳村-加藤長章・阿部荘治・加藤喜久衛・舘田長之介・成田三郎、豊田村-福士謙一・小山内徳進・長尾三郎治・一戸精・福士松太郎、千年村-古川忠次郎、岩木村-笹衛之進、東目屋村-西沢茂三郎、藤代村-岩谷吉太郎、新和村-木村弥次郎、駒越村-小杉佐吉(駒越村長)、大浦村-神文之介・笹義幹(大浦村長)、船沢村-対馬源太夫・永野正也(船沢村助役)、高杉村-高杉金作・藤田重太郎、堀越村-新屋多助(堀越村長)である。
写真99 楠美林檎園(明治末)