しかし、この時期の最大の問題は、米が投機の対象となり、価格の騰落が繰り返されたことである。特に、大正七年(一九一八)七月から九月にかけて起きた米騒動が、社会全体に与えた影響は大きなものがあった。第一次世界大戦を経て発展した日本資本主義は、都市人口の増大をもたらし、農産物購入人口の増大と農産物の商品化を進めたことから、米の需要を拡大させた。しかし、農村内部に寄生地主制度を抱えていたために農業発展が遅れ、米需要に追いつかなかったこと、加えて、大正七年のシベリア出兵を見越して米商人による軍用米の買いだめが行われたことなどを理由に、短期間に米価が三倍から四倍に跳ね上がった。こうして、富山県から勃発した騒動は次第に全国に波及し、一道三府三九県(青森、岩手、秋田、沖縄を除く)へと広がり、参加者は数百万人を数えたという(労働運動史研究会編『米騒動五十年』一九六八年)。米騒動は、全国において米商人や高利貸しが放火、打ち壊しに襲われるなど、当時の社会状況に不満を持つ民衆が自然発生的な大衆行動を繰り広げたものであるが、軍隊が出動するなど、その社会的影響は大きく、寺内内閣倒閣の要因となった。
青森県・弘前市においては、大きな騒動は見られなかったが、米価は全国と同様に高騰した。弘前市では、八月十四日、石郷岡市長が市内の米穀商一同を市役所に招集、「暴利取締令」の趣旨を諭告し、米価変動に関する意見を求めたほか、弘前警察署も売り惜しみ業者などを摘発する方針を発表した。県内では、豪商や地主の篤志家が米の提供や廉売を行うなど、米価高騰の対策を行い、人心の平静に努めた(『新聞記事に見る青森県日記百年史』東奥日報社、一九七八年)。
このように青森県内では大きな騒動に至らなかったが、主食である米の自由販売が、国民の生活を不安に陥れたことから、この後、全国レベルでは大正十年(一九二一)に「米穀法」が制定されるなど、政府が米穀の需給と市価の調節を実施し、米の生産・流通を管理する制度の導入へとつながっていった。また、同十二年(一九二三)には、生鮮食料品の供給改善と価格安定を目的に「中央卸売市場法」が制定された。
写真176 大正期の田植え風景(藤代地区)
明治期以来、青森県産米(津軽米)の問題点は米の品質(乾燥・調整)や俵装の問題であった。米の半数は地主米によって占められ、しかも北海道への移出と流通は米穀商人によって担われていたことから、品質の向上のためには県営の米穀検査制度が求められていた。そして、大正期になると産米の改良と検査による格付けの向上が叫ばれ、地主を中心に産米検査方法の確立が課題となった。
大正四年(一九一五)八月に青森市で開催された「郡地主代表会議」では、産米の改善のために「優良小作米ニ対シ戻米ヲ行イ産米検査ヨリ生スル利益ヲ小作者ニモ分配スル」ことが話し合われている。すなわち県は、地主に意識的に働きかけて、良質米を生産・納入した小作人には「戻米」などの報酬を与えることにより、産米の改善を図ろうとしたのである(「郡地主会代表者会の開催」、資料近・現代1No.六三六)。このことは地主の中には、農業・農村の発展に無関心で、小作料収入だけを目当てにする者が増加していたことを意味し、地主制度の矛盾とこの後の小作争議の背景を内包していた。
青森県では、大正五年(一九一六)四月、「産米検査規則」が公布、米穀検査が開始されたが、俵装検査のみで消費地からの苦情が多く、その後も品質検査が課題となった。また、藁工品も県の重要移出品であったので、その検査制度は、大正元年(一九一二)から県営の抜き取り検査、大正十五年(一九二六)から市場販売直前の製品を対象とする生産検査となり、品質向上に寄与した。