千利休名は
宗易、始め
納屋與四郞といひ、
抛筌齋利休居士と號した。【
田中氏】姓
田中氏、其先足利幕府に仕へて同朋となり、千阿彌と稱した。子孫因つて千氏に改めた。(茶人系傳全集)
利休年甫めて十七、【茶道の師】
茶湯を
北向道陳に學び、後更らに、
武野紹鷗に隨ふて其奧技に達した。(堺數寄者の物語、
南坊錄)始め
紹鷗其才を試みんと欲し、自ら庭園を灑ぎ、砂を布き、後
利休を呼んで掃除を命じた。
利休庭に至つて觀るに、殆ど手の下すべき餘地がなく、因つて微に庭樹を撼がして室に入り謹んで命のまゝにしたと告げた。
紹鷗其才に感じ、悉く其祕訣を傳へたといふ。(堺數寄者の物語)次いで上洛して
大德寺門前に住し、(任聽統譜)
大林宗套に就いて禪旨を受け、法諱を受けた。(茶人系傳全集)【參禪】又
古溪和尚に參禪すること三十餘年、其奧妙を究めた。(續日本高僧傳卷第十一)元龜元年信長堺に來り
利休を見、始めて
茶湯を以て勤仕した。(續王代一覽卷三、茶人系傳全集)元龜中
正親町天皇の勅を奉じて茶具七品を獻じ、
利休居士の號を賜はつた。(鹽尻卷六十一、類聚名物考卷四十六)【秀吉の寵遇】後
豐臣秀吉に仕へて寵遇を受け、長岡友齋、蒲生氏鄕來堺に際して
利休の茶會に臨み、其珍藏せる濱千鳥の香爐を見たこともあつた。(飛鳥川卷中)又秀吉の命を受けて古今を損益し、茶法を改定し、其法遍く海内に行はるゝに至つた。(茶人言行錄)天正十四年三月大友宗鱗上洛に際し、秀吉之を引見し、
利休をして茶を點ぜしめ(貝塚天滿移住記)同十五年には西征軍に從うて
茶湯を筑紫箱崎の松原に點じた。(神谷宗湛日記)【北野茶の湯】翌同十六年十月秀吉の北野松原に大茶會を行はんとするに當つては、
利休命を受けて、其前月九月二十五日に茶具を準備して上洛すべき旨を各地の數寄者に檄し、殊に堺衆は一所たるべき旨を通じた。(
宗易北野
茶湯の文)斯くして、當日の大
茶湯に總監督として遺漏なきを得た。
利休亦好んで茶器の新舊好惡を鑑定したが、往々或は私意を挾み亦頗る僭越の行爲があるといはれた。(武德編年集成卷四一、豐鑑卷四)怙淡を以て
茶湯の生命とした、茶人ノ貫の如きは之を評して、
利休も其盛を知つて、其衰ふるを覺らざれば恐らくは其終りを全うすることが出來ないであらうと、(雲萍雜志一)後果して此言纖をなした。卽ち利久曾て紫野の山門金毛閣上に其木像を置いた。(茶事談、茶人系傳全集)立像で、八德を著、角頭巾を右に投げ、尻切を履き、杖を突き、遠見するの姿である。(
利休木像)【秀吉賜死】秀吉之を怒り、天正十九年二月二十八日尼子三郞左衞門等を遣はして檢使とし、罪科を宣し、死を賜ふた。
利休命を受け、自若として花を活け茶を點じ、終つて阿彌陀堂の釜、鉢開の茶碗、石燈籠を細川忠興に贈り、自作の茶杓と織條の茶碗は弟子の宗嚴に與へ、數寄屋の床上に安坐して自刄した。(翁草卷三十)【遺偈】遺偈は二十五日の日附になつて居る。「人生七十、カ□希咄、吾這寶劒、祖佛共殺提ル我得具足の大太刀は今此時そ天に抛」と(
利休遺偈)一説には其女吟子の事に坐して秀吉の恚りを受け、事こゝに及んだともいはれて居る。今茶家二十八日を以て
利休忌として居るのは自刄の日によつてゐるのである。秀吉、
石田三成に命じて首を鈎懸に載せ一條戾橋に梟し(年代考記卷下)
古溪亦連座して、其累將に
大德寺に及ばんとしたが、折衝宜しきを得纔に事なきを得た。
利休の遺骸は山内聚光院に葬り、木像は長く舟岡山に棄てられてあつたが、宗旦の子閑翁
宗拙搜出し、其首を用ひて
利休堂の像を作つたといふ。(茶事談)
土佐光吉の描いた
利休の肖像に
春屋宗園贊していふ、「頭上巾兼手
二中扇
一、嚴然遺
二像舊時姿
一、趙州旦坐喫茶底、若不
二斯翁
一爭得
レ知」と。(類聚名物考卷四十六)堺
海眼庵(後の
天慶院)に千家一門の石塔がある。
利休は此庵の檀家であつたので、其死後に門弟こゝに塔を建てたが、後
南宗寺の移轉と共に、同寺内に移され、元祿年中に至り堺人常叟宗室の門人高木重三郞亦
利休の塔を再建した。(
全堺詳志卷之上)【茶室】堺市新在家町東四丁
鹽穴寺には
利休の茶室
實相庵があり、(後明治九年から十年の間に
南宗寺内に移された)又竹屋町の邊に(材木町十間筋の東卽ち同町の東二丁)數寄屋の舊蹟があつたといふ。(和泉名所圖會卷之一)【舊邸】今市町(現
宿院町西一丁)の
利休の舊宅址に
椿井があり、
利休は
茶湯に常用したと云はれてゐる。秀吉曾て鷹峰に試射を行つた際、
利休堤上に南向の茶亭を設け、且つ窓前の眺望に峰の頂上に松樹を植ゑ、土人之を
利休松といつた。又山崎の妙喜庵内に茶亭を造り、茶禪の妙趣を味はつた。秀吉亦數々こゝに臨んでゐる。庵内の茶室は一帖臺と稱するもので、同茶室の模範である。(
雍州府志卷八、九)【門人】
利休の門弟中堺人としては、
山上宗二、
此村屋宗怡、
小西彌三郞、
立石紹林、本往坊、
甲斐屋賢佐、
米屋與七郞、
紹二、
玄庵、
壽命院、
茜屋良壽、
茜屋宗純、
圓啁、
伊丹屋紹無、
山岡宗無萬代屋宗安、
針屋紹味(水落)、宗意、
小西如清、甫竹、
重宗甫、
糸屋宗有、
南坊宗啓等がある。(
山上宗二記、茶事談、茶人系傳全集、茶人大系譜、茶家好古集覽)【當時の茶人】猶ほ同時代堺の茶人草部屋道説、
油屋宗味、祐長宗彌、太子屋宗有、
油屋常佐、米屋與十郞、伊丹屋紹其、米屋道通、四條内)宗和等
利休の茶會に名を列してゐる。(
利休茶湯百會席帳)
第二十六圖版 千利休木像
第二十七圖版 千利休書狀
第二十八圖版 實相菴