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商品流通にのった鮭

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 松前藩は、明和・安永年間にかけて、藩財政が逼迫し、場所請負人等商人層から莫大な融資を受けていた。江戸の商人小林屋宗九郎の場合のように、松前藩を相手取りしばしば公訴に持ち込むことも多かった。
 天明元年(一七八一)、松前藩では、小林屋宗九郎の公訴をなんとか内済に持ち込むために、「石狩秋味惣船十五艘天明元丑年より申年迄廿ケ年御運上金高内九百両は江戸御屋敷より年々上納、残り九百両は廿ケ年賦引落」(天明四年御収納取立目録 武川家文書)と定めた。すなわち、藩主直場所であるイシカリ秋味漁の経営を、借金の引当に請負わされたことになる。
 小林屋は、『産物方程控』によれば、天明元年より秋味石高一万二〇〇〇石を一手に請負っていたが、手が回り兼ねることから同五年からは半高を藩主に返納、残り半高を船九艘をもって経営にあたっていた。ちょうど、イシカリ夏商場所運上金が増大したように、秋味漁においてもこの時期に大きな変化がみられた。すなわち、蝦夷地と日本海沿岸地方を結ぶ北前船の発展、それと相まって蝦夷地産の塩引鮭の需要とが、イシカリの産物の生産高を急激に伸ばしていったらしい。
 元文四年(一七三九)段階のイシカリは、「秋生沢山、千石以上の船二艘、三カ年運上金一四〇〇両」(蝦夷商賈聞書)であった。二〇〇〇石のが、イシカリから本州方面へ移出されたことになる。これが、天明五年段階になると、イシカリから松前・本州方面へ移出されたは、船二〇艘分であった。表7は、『産物方程控』に記されている船二〇艘分の内訳である。表に示したとおり、二〇艘のうち九艘は江戸の商人小林屋宗九郎が、残り一一艘は、松前・両浜商人の船であった。松前・両浜請負分一一艘の内訳は、阿部屋が三艘、大黒屋が三艘、大和屋が一艘、船頭長兵衛・船頭長太郎が一艘、天満屋が一艘、浜屋が一艘であった。これは、イシカリ夏商の請負人の勢力とも関わるのであろう。大和屋天満屋浜屋に代わる新興商人層阿部屋・大黒屋の躍進が目立つ。しかも、これら新興商人の廻船は、他の廻船に比べ積荷量も多いことから、大量の蝦夷地の産物の輸送部門を引き受けていた。
表-7 天明5年イシカリ川立船20艘内訳表
 船別船数舟宿船主・船頭
小林宗九郎請負分
9艘内訳
手船   2近江屋三郎次小林宗九郎
酒田   1近江屋三郎次船頭清兵衛
仙台   1近江屋三郎次船頭権兵衛
南部   1近江屋三郎次般頭善吉
南部   1近江屋三郎次船頭喜左衛門
南部   1近江屋三郎次船頭清兵衛
津軽   1近江屋三郎次船頭次郎吉
江戸   1(切囲)近江屋三郎次小林宗九郎
松前両浜請負分
11艘内訳
手船   1張江太郎兵衛阿部屋伝吉
酒田・八右衛門   1張江太郎兵衛阿部屋茂兵衛
手船   1(切囲)張江太郎兵衛阿部屋伝吉
手船   2大黒屋茂右衛門大黒屋茂右衛門
本庄・清三郎   1大黒屋茂右衛門大黒屋茂右衛門
手船   1大黒屋茂右衛門大和屋弥兵衛
能代   1大黒屋茂右衛門船頭長兵衛
能代   1大黒屋茂右衛門船頭長太郎
手船   1大黒屋茂右衛門天満屋三四郎
手船   1大黒屋茂右衛門浜屋久七
西蝦夷地場所地名産物方程控』より作成。

 ちなみに、天明六年頃の松前蝦夷地全体の塩引鮭の見積高は、表8のとおりであった。総生産高四万四〇〇〇石のうち、イシカリ川では三万石とあることから、七割以上をしめていたことになる。
表-8 天明6年頃松前蝦夷地塩引鮭見積高
鮭漁石数疋数
イシカリ川30,000石150万疋
マシケ川4,00020
シコツ川2,00010
キイタップ川2,00010
セタナイ1,0005
諸所取合5,00025
合計44,000220
『蝦夷草紙別録』(松前町史 史料編第三巻)より作成。

 これだけの大量のの廻送先は、小林屋宗九郎の場合、江戸の商人であるから、おそらく江戸か途中の石巻あたりであろうか。また、阿部屋、大黒屋ともに福山城下の株仲間問屋であり、福山城下か日本海沿岸の東北諸港と考えられよう。このようなの大量輸送の背景には、塩引鮭の食文化圏が輸送力とのかね合いで広がったことも合わせ考える必要があるだろう。