春鯡漁の雇は、第六章でも触れたとおり、第一次直轄頃より河口のみならず、海浜に面していない十三場所のアイヌの人びとを鯡漁に近隣の場所まで恒常的に出稼させていた。この時期の最終段階においては、タカシマ、オタルナイ、アツタ方面にアイヌ男女ともに出稼に行っているのがみられる。それは、安政二年(一八五五)の『村山家資料』によっても男女二〇七人が鯡漁の雇にとられている。現在の札幌市域に包括されるアシリベツ、コトニ、オソウシ辺には、秋味漁が終了した時点で番人がそれぞれの番屋へ「飯料取締方」と「軽物出増世話方」の名目で出張し、年内に春鯡漁のためにアイヌを何人かずつ運上屋へ引き連れている。
こうして、春鯡漁に雇われたアイヌは、「一日一人ニ付玄米五合宛、外割鯡等見斗ひ添」(寅二月西蝦夷地イシカリ御場所蝦夷人別並介抱方支配人番人稼方人数仕込品出産物調子書上写)というごとく、「介抱」として食糧が保証された。普通一般に、漁業中アイヌを雇う場合、運上屋において一日三度の食事を給することになっており、それ以外でも「介抱」米として一日男子七合五勺が支給され、婦人や男児はそれより少ない場合もあった。イシカリの場合は、玄米を五合にして鯡で補ったのであろう。そして、一回の鯡漁の雇で支払われる賃金は、上男造俵(この場合一俵八升入り)七俵、中男六俵、下男五俵、女子は六~四俵とされていた(村山家資料)。
秋味漁の場合はどうであろうか。糸網引場というから和人網引場の雇あるいは「テツキ」(手付のことと思われるが、仕事は鮭の員数調べを担当)雇の場合、上男六俵、中男五俵、下男四俵、女子は四~三俵とされていた(同書)。しかも、この秋味漁に従事した労働人口は、第二次幕府直轄直後の安政二年の場合、和人網引場一九カ所で三五七人、「蝦夷網」(榀網のことか)引場七カ所で二二三人、出稼網引場(ユウフツアイヌ)一五カ所で三〇五人の計八八五人であった(同書)。このうち、和人網引場は、請負人直営の糸網を使用した網引場で、アイヌのほかに和人出稼者もいた。これに対し、「蝦夷網」引場の方は、アイヌの手作りの榀網等を用い、しかもアイヌに網の所有権のある「自分網」を用いたアイヌ専用の漁場であった。
これ以外の雇のうち、運上屋での雑用には次のようなものがあり、賃金も定められていた。
①網繕い手伝 冬・夏各二カ月で二俵。
②夜廻り 年一人一一~一二俵くらい。濁酒毎日。
③水汲 年一二~一三俵。濁酒毎日。
④飯焚 年九俵くらい。小児六~八俵。
②夜廻り 年一人一一~一二俵くらい。濁酒毎日。
③水汲 年一二~一三俵。濁酒毎日。
④飯焚 年九俵くらい。小児六~八俵。
このような雇の場合、必ず「介抱米」五合、鯡、干鮭などが支給された。また特別に繁雑な仕事の場合、割増しがなされ、仕事により濁酒がついたり、特に漁業中は定式「介抱」のほかに「飯壱杯」ずつが加えられた(同書)。
さらに、運上屋・番屋間を往来する用状継立や通行継立も、アイヌに課せられた仕事であった。この場合の賃金は距離によって異なり、運上屋を基点に、アツタ賃米五合、オタルナイ同七合五勺、千歳川(川上り三日、下り二日見込み)同三升七合五勺、ただし逗留見込みのある場合米一升ずつと鯡・干鮭の類を持たせるのが通例となっていた。また冬期の千歳川の場合、賃米六升と鯡・干鮭の類と出入時に定式濁酒と決まっていた。さらに細かくは、用状持出発時に飯一杯、帰着時に飯一杯、濁酒二杯ずつが、またオタルナイ、アツタ、千歳川よりの用状持到着時にも飯一杯、濁酒二杯ずつと定められていた。
一方、通行継立も用状継立とほぼ同様な賃金であった。ただし、千歳川への通行送りの場合のみは、実際に清酒、濁酒を支給した。
ところで、このような雇によって生じた賃金は、その場で支給するのではなく、一旦それぞれの帳簿に記しておいて、随時アイヌの要求するもので払い、漁期の終わりに計算して過不足をみて、不足分を清算するといった方法がとられていた。ゆえに、その手続きにおいてどこまで公正さが保たれていたかは疑問である。
次に、安政二年の場合アイヌよりの買い上げ・売り渡し値段をみてみると表7のようになる。造米一俵(八升入り)に相当する商品をみてゆくと、鮭五束=一〇〇尾で玄米八升入一俵といった具合に、アイヌから買い上げる値段を低くおさえ、逆にアイヌの生活必需品の類の古手(古着)、小針、鍋等の売り渡し値段を高くつり上げているのがわかる。一漁期間でアイヌが得る代米と比較するならば、この交換比率がいかに公正を欠き、かつ高価な商品を買わされていたかが知られる。
表-7 安政2年4月アイヌよりの買上げ・売渡し値段 |
買上げ | 売渡し | ||
商品 | 値段 | 商品 | 値段 |
鮭 5束 | 造米 1俵 | 玄米 8升 | 造米 1俵 |
荒巻 7束 | 1俵 | 糀 4升 | 1俵 |
干鮭 8束 | 1俵 | 濁酒 8升 | 1俵 |
鱒 10束 | 1俵 | モロミ 4升 | 1俵 |
榀皮 16貫匁 | 1俵 | 清酒 4升 | 1俵 |
椛 24貫匁 | 1俵 | 地廻り煙草 4把 | 1俵 |
並厚子 1枚 | 2把 | ホロキ 8玉 | 1俵 |
綾キナ 1枚 | 2俵 | 大古手 1枚 | 5.5~4俵向 |
並キナ 1枚 | 2把 | 小供古手 1枚 | 3.5~2俵向 |
アフツケ 1枚 | 半把 | 白木綿 2尺6寸 | 1把向 |
アシナフ 1枚 | 半俵 | 厚子 1枚 | 1俵 |
ワッカケフ 1枚 | 半把 | 繰糸 20繰 | 1把 |
古鐇 1丁 | 半把 | 夷鐇 1丁 | 1俵 |
夷榀網一式 | 1俵6把 | 田代 1枚 | 1俵 |
小針 4本 | 1把 | ||
鍋 1~5升入 | 1.5~5.5俵 | ||
かもかも 1組 | 1俵向 | ||
夷椀 1ツ | 半把 | ||
行器 1ツ | 30俵位 | ||
耳盥 1ツ | 5~4俵2把 |
『安政二年乙卯四月夷人より買入物幷売渡物直段書』(村山家資料 新札幌市史 第六巻)より作成。 |
このように、この時期の最終段階におけるアイヌは、一イシカリ場所に限らず請負人の独占的な支配下にあって産物は安価に買い上げられ、安い賃金で使役されたうえ、さらに必需品購入においても高価なものを買わされて、二重、三重の搾取を受けていた。