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大内清右衛門の偵察

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 水戸藩蝦夷地への関心は、光圀の時代の快風丸のイシカリ探検にまで遡る。その後、北方からロシアの勢力が南下してきて、天明・寛政年間以降とくに蝦夷地の開拓論、国防論が識者の間で論議され、幕府の重要課題にのぼったのにも水戸藩の少なからぬ力があった。寛政五年(一七九三)の水戸藩の医師木村謙次、武石民蔵の蝦夷地調査、同十年の幕吏近藤重蔵等の蝦夷地調査に参加した木村謙次の活躍などがそれである。それに寛政八年、前年より福山に招かれて滞在し、前藩主松前道広の種々諮問に答えていた大原左金吾が、道広の施策に失望して福山を去った後、帰途水戸に立ち寄って立原翠軒に国事を語ったように、水戸藩蝦夷地に関する情報は他藩に抜きんでて豊富であった。
 水戸藩では、寛政以来蝦夷地の海産物交易に力を入れ、那珂湊には穀会所などを開設してきた。寛政十一年の東蝦夷地直轄以後は、幕府による漁場開拓が盛んとなり、太平洋沿岸航路(東回り航路)の発達とともに蝦夷地産の塩鮭、塩鱒、魚油類が仙台、江戸と並んで直送されるにいたった。そして、穀会所を通して、塩、米、雑貨類が蝦夷地交易の商品として送られていくといった関係が続けられた。

写真-2 天保12年那珂湊御船蔵(那珂湊市蔵)

 ところで、イシカリ場所がどのようにして仙台、水戸、江戸方面にまで送られていったのか、それを語ってくれる直接の史料はない。しかし、文化三(一八〇六)、四年のロシア人のカラフト、千島襲撃事件の際、水戸藩より箱館まで派遣された秋葉友衛門等によっても、イシカリ場所は、「秋味ノコト石カリ極上也。コノ魚色白ク鱗ニ黒ミツク。是ハマシケ、ルヽモ(ルルモツヘ)ノ魚石カリ川へ入、川口ニテ取蝦夷第一也。」(北遊記 東大史)というように、かなりの関心をもって記されている。また同時期の水戸藩の史料に、粕干鰯問屋(かすほしかどんや)や仲買が蝦夷地産の鱒〆粕を米の生産高を上げるために売り広めたいといった趣意書や願書を差し出しているのがみられる(茨城県史料 近世社会経済編Ⅰ)。これは、干鰯に代わる肥料として豊富な蝦夷地産の鱒〆粕等が求められたからであろう。
 海産物を通して蝦夷地との深い関わりのある水戸藩では、天保五年(一八三四)十月藩主徳川斉昭が蝦夷地開拓と防備を老中大久保忠真に建議した。すなわち、蝦夷地領有嘆願運動の開始である。これはその後も銚子など南方の増封願とともに「南北一件」として繰り返し請願されたという。その意見の内容は、日本の北門を外冦から守るため、松前氏のような小藩に任せておかず、全地を幕府に収公して一〇〇年の大計を立てて、自分(斉昭)が水戸徳川家の家督を世子鶴千代に譲って蝦夷地に移住し、身命を賭して開拓事業を遂行し、永代の基礎を築こう(山海二策 水戸市史 中巻(三))というものであった。この意見は、大久保忠真の賛成は得られなかったが、大久保の死後老中水野忠邦と掛け合いの結果賛意は得られたものの、実行には移されずにいた。
 天保九年、斉昭の蝦夷地開拓熱は醒めるどころか、今度は密偵を福山に送り込むにいたった。同年五月、斉昭の密命を受けた大内清右衛門は、那珂湊から手船徳宝丸に乗って箱館、福山、江差等を回り、種々蝦夷地の情報を集めて同年十一月に帰着した。大内は、手船数隻を持ち、北方交易を行い、且つ造酒も営む豪商であった。大内の福山滞在中の調査内容は、御用調役白石重隆(又衛門)が問答体に記した『蝦夷情実』(函図)に詳しい。そのおもな内容は、①松前家の一カ年の収納金高、②松前産物売捌方の幕府との相違、③諸国より福山、箱館、江差への米穀の移入高、諸国より入津の船数、④場所請負人・アイヌの状況、⑤外国船の状況、⑥東西蝦夷地・カラフトの地理、⑦蝦夷地警備状況、⑧山丹交易等にわたっていた。調査が蝦夷地の産物松前藩の財政事情に深く立ち入っていることが注目される。
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写真-3 大内清衛門北門偵察一件書類写(東京大学史料編纂所蔵)